東洋における実在論の問題
仏教は基本宗教であり厳密には哲学と言えないのかもしれない。特に細部に入ると行としての瞑想体験が語られ、言葉での反省である西洋哲学と共に論じていくことが難しい。
だとしても実在とは何かを特に仏教に関して取り上げればどうなのかと思い唯識論をとりあげてみたが専門家ではないゆえに中途半端な論究で終わってしまった。
インド仏教の大きな流れである大乗仏教の一派に唯識派 という思想集団がある。
彼等は実在論を批判し、 存在するものはすべて認識の結果に過ぎない ことを主張した。
インド大乗仏教は、中観派と瑜伽行派という二つの大きな学派に分けられ中観派の祖ともいわれる 龍樹(2~3世紀)は、存在には原因があるとし、実体を否定した。それ故に空であると唱えた。
両学派は違う思想傾向を持ち、 瑜伽行派は無着と世親(共に5世紀)
の兄弟によって思想的に整備さ れた。
「瑜伽行」の「瑜伽」はサンスクリット語のヨーガ(yoga)の 「唯心」である。
「唯意識あるのみ」と存在は心の表れに過ぎないと主張するようになった瑜伽行派は外界の対象の存在を否定し、心の中に対象の姿をありありと想起した。
こうした瞑想 を漢字で写し取ったもの、瑜伽とは瞑想の実践を意味する。
仮に心のみが実在し、世界のすべてが心の表れに過ぎないというな らば、他者の存在をいかに考えるかここに実在論で扱うのに思想的な問題がある。
私が認識を止めると、認識された対象もまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)。
全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しないとならば、他人の存在、他我も説明できない。これは素朴な独我論となる。
つまり大乗仏教という視点に立つとき、唯識思想も 他者の存在を無視し得なくなり一つの矛盾となる。
大乗仏教は利他行、すなわち他者の利益教導すること を本旨とする。一方で唯識を徹底していけば、独我論(世 界 には 自分 独 り しか 存 在 し ない )に陥りることにもなりかねない。
他者の存在も認識者にとっての心的現象であるということになる瑜伽行派の考えでは、複数の人間の認識によって存在の場が成り立つ とするが、それはいわば誤った認識によって作り出 された世界であって、そうした虚構の主題は、理論的なものではなく、実践的なもので 超 克することが、瑜伽行派の最終的な目的であっ た。実践的とはヨガの実践を指す。
他方、ヴァイシェーシカ学派は実在論の立場から、 存在物は原子で構成されていると主張した。
また、仏教哲学においても、説一切有部や経量部は原子を実体として認め、存在物は原子 に還元可能と考え実体を認めないインド他集団と鋭く対立した。
一方、瑜伽行派の仏教哲学者たちは、外界の対象は認 識の所産に過ぎないと考えていたのは先に述べたが、 瑜伽行派は 5 世 紀ごろの登場した大乗仏教の一派で、唯識派 とも呼ばれたように、外界実在論を批判し、 存在するものはすべて認識の結果に過ぎない ことを主張した。
唯識では、他者の存在意義を積極的に問うことはなかったが暗黙の前提として、他者の存在を認めていたことが興味深い。
このように他者の存在を認めなければ信仰という日常世界が成り立たたないところに問題があったのだろう。
唯識という考え方を徹底し、すべては認識の表れに 過ぎないとすれば他者もまた認識の所産とならなければならないのだ。
この問題は単なる意識の問題ではなく近代日本の哲学者西田幾多郎の「行為的直観」に収斂されていくのだろう。
西田にとっては、現実の実在性は直観によってのみもたらさせるという。
例えば、唯識でいうところの座禅とか瞑想とか何らかの動的な、行為的に媒介された直観ならば実践的・主体的という言葉も無理筋なく適合できるからである。
人間とは身体を以て現実的世界との実践的な係わりをしていく存在なのだ。単に認識だけが人間の人間としてのあり方ではない。人間とは、身体を通じて世界とかかわり合う具体的な存在なのだ。
つまり人間とは行為的直観的に、身体的に把握せられた時自己のみではなく他者との実存も把握せられる存在なのだ。
行動と直観|浅原録郎 (note.com)