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エチカ

スピノザの「エチカ」は)数学的、幾何学的な記述方法にもかかわらず、日本人 に受け入れやすいものだ。

心身一元論的な万物に宿る神性というエチカの内容が、日本人 的でありその独特の考え方や生活感情、昔からの生活習慣に程遠くないと感じられるからである。

先ず主要な語句の解説ですが「心身一元論」です。
日本人 は元来、心 (精神) と体 (物質) とを厳密に区別して考える習慣がなく、昔から「病は気から」といった心と体とを一体の物とする考えがあった。


次に汎神論です。日本人であれば生活の中であれ、自然の中であれ、すべての物には魂が宿っていてそれを神としてあがめてきた。言葉にも言霊が宿っていてそれがごく普通の生活感情として受け入れている。

さらに八百万(やおよろず)の神を敬い、オリジナルの神道も外来の仏教も一部は一体化もしながら受け入れてきた。それが狭い国土のなかで諍いを起こさない日本人の智慧であり、大陸の多民族国家のように破壊しながら文明を続けるのではなく良いものを保存しながら文化を発展させてきた特性なのです。

そんな目線で「エチカ」を読んでみると難しいながらも納得のいく視点を見つけるのは容易なのだろう。

古来日本人は人が神となることも神が人になることも同列であった。

無限知性から成る真理空間があり、これが宇宙=自然である。
 三角形の内角の和が180°などの真理はこの広大無辺な真理空間の微小な一部をなす。

同様に、私(人間)というものも、宇宙=自然の一部であり、このことは三角形の内角の和が180°であるという真理が時間と無関係、つまり永遠なのであるとおなじなのだ。

要するに私がいま・ここに現に存在していることがすでに永遠なのである。
なぜなら三角形の内角の和が180°という事実は、この世が生まれる前から滅びるまで変わらない (=時間を超越している、つまり永遠の) 真理=必然性だし、私が20世紀から21世紀にかけての一時期、この地上に生を受けたという事実は、それが事実である以上、未来永劫、どうにも変えようのない つまり永遠の事実=真理=必然性)なのである。


ところで、必然性とは、以前も以後もない 、つまり永遠であるということ。

三角形の内角の和は必然的に2直角である。あるいは、私が今・ここに存在することも必然的 であると認められる。

もしも私が、偶然)ここに存在していると考えたとすれば、必然性というものが意味不明になる。

こんな例えを示した人がいた。

ポンと地面に放ったボールは偶然どこかへ転がる。その証拠に何度も放ると、さまざまな場所に転がる。なぜならそれが偶然だからである。


しかし、もし「私」がボールを放るように何度でも生まれ変わって人生をやり直せ、そのたびに様々な場所で様々な人生を送れるのなら、私のいまある人生はまったく偶然の産物である。


だが、私は後にも先にも1回こっきりの人生しか与えられないし、1種類の人生しか選べないのだから、この人生は必然的という他はない。

三角形の内角の和は180°という角度しか存在しない のは、選べないのと同様で私も1種類の人生しか選べない。

だから結論として必然性には以前も以後もなく、必然的に「宇宙=自然や私」が存在するかぎり、事物や私が、いま・ここにあることが、すなわち「永遠」である。


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