スピノザと西田幾多郎 その3
西田哲学の特徴としてとりわけ重要なのは、いわゆる「述語主義」ではなくいわば双方向主義であり、双方向的な追究こそが中期西田哲学の「骨」となっている。双方向性を核とした内在主義にこそ、スピノザとの深い関わりがあるといわれる。
西田哲学は全体として宗教哲学であり、スピノザ哲学やキルケゴールの思想と同 様、本質的に宗教的自覚の論理である。
西田は宗教が思想の根本であると考えていた。
いっ さいのものは宗教より出て、また宗教に帰るのである。
『善の研究』では、「学問道徳の本には宗教 がなければならぬ、学問道徳はこれに由りて成立する」が、人智の未だ開けない 時は人々かえって宗教的であり、学問道徳の極致はまた宗教に入らねばならぬようになる」と いう。
また遺稿「場所的論理と宗教的世界観」においても、「宗教的意識というのは、我々の生命の根本 的事実として、学問、道徳の基でもなければならない」と述べ られている。
西田は、晩年、歴史的世界の自己形成の問題に苦労した。
現実の世界の歴史的形成の問題が彼の最大の関心事であり、この意味では、彼の哲学は歴史哲学であったといってよいといわれている。
そして、「絶対矛盾的自己同一」「行為的直 観」「作られたものから作るものへ」の三つの用語が彼の歴史哲学の基本概念となった。「絶対矛盾的自己同一」と いうのは、歴史的現実界の内的な論理的構造を表現したものであって、具体的には一即多・多即一とか、内即外・ 外即内とか、時間的限定即空間的限定・空間的限定即時間的限定とかいった定式で表現される。それらはいずれ も、絶対に矛盾的なもの、対立的なものが、そのように矛盾し対立しながら、しかも同時に自己同一を保持してい ることをあらわしている。
また「行為的直観」は、歴史的世界のこうした不断の自己形成を、行為的主体の側から 主体の働きに即して表現したものであり、「作られたものから作るものへ」は、同じくそれを反対に世界自身の側 から世界の働きに即して表現したものと考えられる。・・・小坂国継
スピノザ哲学は、一元的存在論としての「自然汎神論」(Deus sive natura 神即自然) を提唱し、「自由意志 とか絶対的な 神意」を否定し た。
スピノザの神即自然の一元的汎神論に対し西田幾多郎の世界は、歴史的形成の問題であった。要は歴史哲学についてである。
ですから、先に述べた三つの用語が、彼の歴史哲学の基本概念となった。
前章で触れたように「絶対矛盾的自己同一」と いうのは、一即多・多即一、内即外・ 外即内とか、時間的限定即空間的限定・空間的限定即時間的限定とかいったものの別表現なのだ。
それらはいずれ も、絶対に矛盾的なもの、対立的なものが、そのように矛盾し対立しながら、しかも同時に自己同一を保持してい ることをあらわしている。これは、論理学的には理解がしにくい事柄である。
また「行為的直観」は、歴史的世界の自己形成を、行為的する主体の側から 主体の働きに即して表現したものであり、「作られたものから作るものへ」は、同じくそれを反対に世界自身の側 から世界の働きに即して表現したものと考える。
歴史的世界の根底には宗教があると西田は常に考えていた。
歴史的世界は、宗教的 構造を基本的に有しているのだ。
それについて西田は、「宗教は個人の意識上の事ではない。それは歴史的生命の自覚にほかならな い」「歴史的世界は、その根底において、宗教的である」という。
これらの真意は「宗教を否定することは、世界が自己自身を失うことであり、逆に人間が人間自身を 失うことである。それは、人間が真の自己を否定することにほかならない」ということなのだ。
西田哲学は「純粋経験」、「自覚」、「場所」、「弁証法的世界」あるいは「絶対矛盾的自己同一」という時期に区分される。
処女作『善の研究』は、自己という存在の在処について多くを触れているが、宗教は「いかに生きるか」の問題ではなく、「なぜ自分は存在するか」の問題であると考えていた。
宗教は個人と超越者との関係の問題であり、具体的には、両者の同性的関係あるいは相即的関係の問題であると考えていることである。
『善の研究』の宗教観は、「純粋経験」の立場から考えられている。
純粋経験というのは、主観と客観が未分離の意識の厳密な統一的状態のことで、その純 粋経験の背後には意識の「根源的統一力」(普遍的意識作用)があり、個々の純粋経験はこの根源的統一力の現れ、発展であると考えていた。
この純粋経験は、一方では、ジェームズの「根本的経験論」 (radical empiricism)と結びつき、他方では、フィヒテ以後のドイツ観念論、特にヘーゲルの「具体的普遍」 (konkrete Allgemeinheit)の考えと結びつくのだ。(小坂国継氏論文より転用)
西田はスピノサの汎神論には共感的である。 しかし、西田の基本的な立場は「万有内在神論」(神(絶対者)は超越と内在を兼ね備えているという考え)(panentheism)に近い立場である。
初期には、「純粋経験の事実は我々の思想のアルファであり、またオメガである」と説き。純粋経験を唯一の根本的実在と考え、純粋経験からいっさいのものを 説明し、いっさいのものを純粋経験の発展の諸相として見ようとする立場であった。
中期には、判断的一般者(自然界)から出発して、判断における主語(特 殊)と述語(一般)の関係にもとづいて「自覚的一般者」(意識界)に進み、今度は意識の志向作用を手がか りにして「叡智的一般者」(叡智界)へと超越し、さらに叡智的一般者の種々の段階をへて、究極的な一般者である「無の一般者」(絶対無の場所)にまで至っている。それは現象界から実在界へ至る形而上学的階梯を一歩一歩 昇っていく過程である。
道徳的自己は絶対無の場所にもっとも近接した叡智的一般者であるが、西田はこの道徳的自己を「悩める 魂」として性格づけている。
それは自己矛盾的な自己であって、道徳的自己はつねに理想と現実、義務と欲求、善 と悪、価値的なものと反価値的なものとの相剋の狭間にある。
そして、こうした「悩める魂」である道徳的自己 は、その自己矛盾の極限において、自己の絶対否定による転換すなわち回心を経験する。
それが宗教的意識である 。
したがって、道徳的自己と宗教的意識は直接的に連続しているのではない。そこには絶対の断絶が介在している。
道徳的自己と宗教的意識は絶対の断絶を介して連続しているのである。道徳的自己に死して宗教的意識に生きるのである。
ここに、西田哲学の分り難さががる。この「宗教的意識」とはいったい何であろうか。
宗教的意識とは、一言でいえば、自己の根底が絶対無に通じ ているということの自覚である。また、それは同時に絶対無の場所自身の自覚でもある。
したがって、宗教的意識 と絶対無の場所と絶対無の自覚は一体にして不二なるものである。
宗教的意識における絶対無の自覚は同時に絶対無の場所自身の自覚である。ここでも、個と普遍の相即的関係が主張されているわけである。
『善の研究』におけ る純粋経験と根源的統一力(神)との関係は、宗教的意識と絶対無の場所との関係に置き換えられ、それがともに 絶対無の自覚として統一されている。
この時期における西田の宗教論の特徴は、個の側における悪の問題が正面からとりあげられ、究極的に道徳的自己が破綻し、その自己否定を媒介として宗教的世界があらわれる、と論じられていることである。
ここでは、宗教 はもはや道徳の延長上に連続してあるのではなく、道徳的なものとの断絶において、すなわち非連続としてある。
この意味で、この時期の宗教論は宗教の自覚的段階であるといえるだろう。 けれども、絶対無の自覚が「見るものも見られるものもなく色即是空空即是色の宗教的体験」と定義されている ように、この時期においては、宗教はまだ自己の側から、自己の否定的転換としてとらえられていて、それが同時 に場所の側から場所自身の否定的転換として見られるという要素は希薄である。
これらの論及がどのように最晩年の思想にひきつがれたのだろうか。
最晩年には、宗教をわれわれの自己の側から考 えられているとともに、超越者(絶対無)の側からも考えられていることである。この論文で頻繁に用いられてい る「逆対応」の観念がそのことをよくあらわしている。
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