西洋合理主義と東洋的非合理主義
過って、西洋合理主義に対し非合理的なものとされる東洋思想はまったく無力な存在であるといわれてきた。
明治以降、西洋思想を受容した近代日本において、東洋の論理で西洋の論理の限界を克服しようとしたのが西田幾多郎である。
西田は、西洋の論理を主語的で対象論理的であると断じた。
何処までも自己と世界とが対立的で、何処までも主観主義的であるということです。西田は仏教哲学に於て、無の論理と云うものを見出した。
東洋思想は、理性を超えた宗教的直観の論理である。中でも大乗仏教の思想は、理性の否定転換によって開かれる悟りの境地に生じてくる根源的実在の世界を、極めて精緻なかたちにおいて把握しているのである。
西洋の伝統的論理が実在を有として捉えてきたのに対し、大乗仏教は実在を空(絶対無)として捉えた。西田が無の論理というのはこれである。この理性を超える世界の構造を、現代的なかたちで説明されれば、真の論理の確立が可能となるのです。
西洋の論理は自己と世界、主観と客観を統一するヘーゲルの弁証法において完成を見た。
では東洋のそれはどうであろう。東洋思想は主体と客体との対立を根源的な存在の深層に於いて乗り越えることによって実在との合一を実現しようとしたものと捉らえるのです。
西洋の思想は「自我意識」による思想と言えるのでしょう。
それに対して東洋の思想は「中道」による思想と言えます。中道の〈中〉は、2つのものの中間ではなく、2つのものから離れて矛盾対立を超えることを意味し、〈道〉は実践・方法を指します。
「中道」は自我意識がない時に現れます。ですから理性ではとらえることが難しいのです。
そのために「無」と言う表し方をしてきました。
西洋の思想は「自我」を強く主張し、東洋は「無」から出発していますので主張するところがをはっきりしません。
何故ならば無は言葉ではないからです。言葉のない世界を表現しようとしますから当然非論理的と言わざるを得ません。
従って「以心伝心」或いは「教外別伝」といって「教える事が出来ない教え」という言い方をしてきたのです。これでは二つの思想は統合はおろか対話すらできません。
合理的とは自我意識優先の考え方で分別の別名です、分別は有限の別名です。有限は論理的限界を表しています。
今世界がその限界に来ている事がその思想として現れています。物事を論理的にだけ割り切ってゆく事には限界が在ります。世界の矛盾を、心の矛盾を自我意識だけでは解消できないという事を理解しなければいけません。
一本の材木が、大きな河を流れている。その材木が、右左の岸に近づかず、中流にも沈まず、陸にも上らず、人にも取られず、渦にも巻き込まれず、内から腐ることもなければ、その材木はついには海に流れ入るであろう。
この材木の例えのように、内にも外にもとらわれず、有にも無にもとらわれず、善にも悪にもとらわれず、迷いを離れ、さとりにこだわらず、中流に身をまかせるのが、道を修める者の中道の見方、中道の生活である
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