徳川家康 第二部その一
甲府の武田が滅亡し家康は信長に安土に呼び出された。武田との戦争勝利の祝賀会であり慰労会であった。
天正三年(1575)織田・徳川連合軍は長篠の戦いで武田軍を撃破。その後も武田家の家臣を寝返らせながら、ようやく天正10年(1582)三月に武田勝頼ら一門を討ち果たすことになる。
このとき、徳川家康は、武田氏から寝返った穴山梅雪(あなやまばいせつ)を案内者として甲斐攻め(山梨県)を行っており、それが認められる形で、信長より駿河・遠江の両国(共に静岡県)を進呈された。穴山梅雪も本領を安堵される形となった。
この御礼のために、家康と梅雪は安土へ来ることとなる。信長は、自身が甲斐攻めから安土に帰城する際に、家康が見せた気遣いを覚えていたのだろう。
家臣に、家康らを丁重に接待しなければならないとして、街道を整備させている。信長の家臣である太田牛一(おおたぎゅういち)が書いた『信長公記』にも、
「二人の宿泊地ごとに国持ち・郡持ちの大名たちが出向き、できる限りの手を尽くして接待せよ」
との命令が記録されている。
天正10年(1582年)、本能寺で織田信長が討たれると、徳川家康は明智光秀に追われる身となった。随行した服部半蔵正成ら伊賀忍者が護衛して伊賀国を通過させ、半蔵は後に伊賀忍者の頭目になった。一般に「神君伊賀越え」と呼ばれる“事件”だ。
安土城での接待は同年五月十五日から十七日の三日間にも及んだ。その後、五月二十一日に上洛。信長より、京都や大阪、奈良、堺を見物することを勧められた。
案内者として信長の家臣、長谷川秀一(はせがわひでかず)が同行している。家康の足取りだが、二十八日まで京都に滞在、二十九日には堺へと向かっている。
当時、堺は国際貿易港として栄えており、家康は今後の国づくりの参考にしたかったのだろう。数日間滞在している。六月一日には堺の豪商の茶会に招かれた記録もある。
家康は、のんびりと京都や堺を見物し、買い物を満喫した。その後の伊賀越えの苦労など何ら予想することが出来なかった。信長の天下統一への助力も実り駿河遠江三河を領有する大名となった。長年危惧した今川、武田の脅威も無くなったこの度は本当に愉快な旅であった。家康のうれしい、ご機嫌な顔が目に浮かぶようだ。
そして運命の六月二日早朝。「本能寺の変」が起こった。
信長の家臣、明智光秀が謀反。京都の本能寺で信長・信忠父子が討たれた歴史的大事件である。一方、家康はというと、ちょうど堺を出発して京都へと向かっているところであった。そして、枚方(大阪府)まで来たところで、本能寺の変の知らせを受け取ることとなる。
こうして、家康の人生最大の受難が始まるのである。
家康の配下で京大阪で情報収集や戦時の兵站担当の茶屋四郎次郎が「信長公討たれる」との情報をもたらした。
このとき家康は少数のお供しか同道させていなかった。徳川四天王(酒井忠次、榊原康政、本多忠勝、井伊直政)を筆頭に、のちに秀吉方に出奔する石川数正、伊賀出身の服部半蔵(はっとりはんぞう)など、総勢34名。
身分の低い足軽等はいなかった。このわずかな手勢で、一体どうすれば最大の危機を乗り越えることができるというのか。家康の結論は『自決』であった。
浄土宗に帰依していた家康は京都に戻り浄土宗の大本山知恩院で自決して果てようとつぶやいたのだ。
「三方ヶ原で敗れ、もはやこれまでと松明をたき浜松城大手門を開き最後の決戦の時を待ったが計略を恐れた武田追尾軍は兵を引き自分は助かった」・・
浜松城ではあれほど冷静に我慢を重ねたのに自決を決するほどに今回家康は焦っていた。
「明智の軍勢は13000は下らないだろうな」と傍らの井伊直政に語りかけた。
「御意」と直正は短く答えたが
続けて口を開いた。
「殿あきらめてはいけません。明智殿は京での我らの接待役。我ら供周りの人数の少ない先刻承知のはずです」
「そちは何を言いたいのだ」家康は再度直政
「は・・・我々が堺にいたことは恐らく把握されています。しかも本能寺の変を起こした理由が、家康様への接待の不手際を信長公が責めていたと家来衆が噂をしていました。恐らく罰を恐れた行動と思われます。ですから是が非でも我らを捕まえ征伐ということはないのでしょう。時間を稼ぎながら京を離れた間道を岡崎までいければ今後の道は開かれると思われます」
家康は一堂に向かって言葉を継いだ。
「東国へ通ずる主要な道を明智軍に押さえられれば、この機に乗じた我々は簡単に討ち取られる可能性が濃厚である。生きて信長公の弔い合戦などもっての他だ。少数の手勢では如何ともできないが先ずは明智軍を避ける安全策を申してもみよ」
「伊賀へ抜ける山中をを通りその後海路にて領国三河への帰還が最もよかろう」と二三の武将が口裏を合わせるように答えた。
であれば
「一揆勢との遭遇や、落ち武者狩りなどの危険はどうであろう。家康様を討ち明智に通報すれば大枚の賞金をもらえると野盗どもは虎視眈々と上様を狙うだろう。特に伊賀界隈は信長様が戦争をした時、情けをかけないその非情さを恨む国人衆も多かろう。とても伊賀越えは危険だ」
酒井忠次は声を荒げた。
実際のところ家康と別行動で帰った穴山梅雪は、一揆勢に襲われて命を落としている。家康からすれば、襲われる相手は異なるが、結果的に無様な死に際をさらすのは同じ。そんな最期を迎えるくらいなら、京都まで上って、知恩院へ駈け込んで自刃をしようと考えたのだ。
しかし今であれば敵に気づかれず逃亡できるかも知れない。時間が過ぎるほど生存は厳しくなると一行は生きる道、伊賀越えを決断した。
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