狭き門
キルケゴール
狭き門とは本当に自分にとって価値ある成果を得たいならば、困難な道を歩んでいくべきだということをあらわす。
謙虚なる心は小さい自我を通す喜びによってよりもそれを粉砕する悲しみによって得られるのである。険しい道により、狭い門をくぐって私たちは天国(安心)に入るのである。
「新約聖書―マタイ伝・七」に見える言葉で、「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」となっています。本来は、神の救いを得るためには、それ相応の努力をしなければならないことを指すことばです。
キリスト教では、天国に至る門は狭く道は細いが、神の救いを得るには、苦難の道を歩まなくてはならないという。
京都FAS協会の創始者であり、京大やその他の大学で宗教哲学を講義をした久松真一氏の京大の教え子であり後、学者として名を成した東専一郎氏が師久松氏の提唱した基本的公案(どうしてもいけなければどうする」の考証を交えながらその意味するところを書いてみた。
ポストモダンの人間像を提唱した久松真一氏は近代日本が生んだ稀有の哲学者、西田幾多郎の京大での高弟の一人でありながら特筆すべき禅者の一人でもあった。
彼は幾千、幾万もある歴史的公案を退け「どうしてもいけなければ どうす
る」との公案を提唱した。
この公案は、現在今、此処での自己のあり方を問い真の人間性を覚することをせまる公案といわれ段階的に幾つかの公案を解く歴史的方法を批判しこれ一つでこと足れる故、基本的公案と呼ばれる。
私(浅原)は、久松先生がが創設し死後その学生であった学者達が中心になり運営するFAS協会の末席を汚すようになったのは基本的公案との出会いであった。
所謂公案というものには日常的自己を絶対に否定即肯定する覚ということが
なければならない。
覚とは自己が真の自己を知ることでありそのことが真実にして幸福なる世界
創造の現前となり主体的に歴史創造にかかわっていくことである。
しかし真実の自己に目覚めるという意味が未熟な自分には今一つ理解出来なかったのである。
西田幾多郎は「色を見、音を聞く刹那に主観的、意識的な日常的自己が打破
され真の自己が現前する」といっている。
自己が自己を自覚するという普通いうところの自覚は[ノエマ、ノエシス的」
(ノエシスとは考える作用を意味し、その対象としての精神的に知覚されたもの、つまり考えられたものがノエマである)
であり覚には主観も客観もなく覚するものも覚されるものもない。
覚される真の自己が覚するのであり、覚しようとする人が覚される。
換言すれば覚は日常的自己の認識作用ではなく真の自己本来のもつ働きであ
ると理解出来る。
次にこの自己がどうして働き出すのか西田はまた次のように言っている。
「疑いうるだけ疑ってすべて人工的仮定をとりさり疑うにももはや疑いよう
の無い直接の知識(直覚的経験の事実)を本として出立せねばならない。
かかる確実な知識によって見れば(真の実在)直接経験の事実あるのみであ
る。」
これは一切の日常的自己の否定であり絶対否定されたところに絶対他者が絶
対自者として現ずることを指示する。
これはまた絶対矛盾合一の場であり、ここを自己がいかに主体的に問いうる
かということになる。
この問いに自己が追い込まれそれを機縁に現代という立場に立脚した具体的
目覚めへの手懸かりが基本的公案「どうしてもいけなければ どうする」である。
この具体的目覚めが具体的形となってこなければならないがこの点にすこし
ふれてみたい。
東専一郎氏(久松先生の京大時代の学生で関西大学で哲学の教鞭を執って
いた文学博士)が久松真一先生へ質問した絶対否定について、
久松先生は「絶対否定といっても色々ありましてね、どうゆう絶対否定かが問題なのです」と答えている。
東氏はそれに言及して「(どうする)という具体的形をとってこないような
絶対否定は本当の絶対否定とはならないという。
それは終末が現在であるような意味での絶対否定、絶対が現在であるような
意味での絶対否定である。そこから新しい世界創造が出てくるというかほん
とうの(どうする)が出てくる。
日常的自己と目覚めた自己が(心心不異)的に同時性起であるという根源的
事実をこの公案は指示し、この公案が意味をもつのは現在此処という存在論
的普遍的事実の中で働くはたらきだからである。
よって(どうしてもいけない)が先にあって後から(どうする)が後件的に出てくるのではない。(どうする)という特殊な具体的形の中に(どうして
もいけない)が全てもれなく含まれている。その事により具体的形が生きた
形になる。
懺悔という一事をとっても、私我を離れるような事がそこになくてはならない。口先だけで悪かったと言ったり或いは観念的に悪かったと思うでは本当の懺悔にならない。本当の懺悔は具体的形をとって出てくる。
その中に(どうしてもいけなければ どうする)が働いているわけである」とこのように論じている。
更に東氏は自書「基本的公案」の中で「私達が主観客観を天秤棒の両端にぶら下げていたのではその両端が「狭き門」に阻まれて神の前に出ることが出来ない」と述べている。
この神の概念は久松的にいえば「外対立なくして、内差別を絶するものいわ
ゆる絶対無」となるがそのような神の場に出ることの出来る自己とはどんな
自己であろうか。
私がこの二元的世界の中で生きているということは何かしらのこれだけは譲
れない、これだけは捨てることが出来ないという何かを形にして生きている
といえる。
この、なんらかの形あるものゆえ有相の自己では神の前に出ることも、基本的公案を受け取ることすら出来ない。
「基本的公案」を受け取るということはこの狭き門を潜り抜けることであり
神に出会うということはこの「有相の自己」が、なにものにも限定されない
本来的に自由なゆえに形なき「無相の自己」が寸分も違わずぴったりと一致
することである(本来のものが本来になる)。
では何故私が、私達がこの基本的公案を受け取ることが出来ないのかであ
る。
それは意思的というのではなく自覚の問題である。
私達は日々の生活の中で発生するさまざまな問題の解決にあくせくしながら
生きているのが現実である。
健康でいられるだろうか、商売や仕事はどうなるであろうか、家族の将来は
等々枚挙の暇も無い。
しかしなんとか成って来た。これからもなんとか成るだろうと楽観的希望に
託して生きている。反面善をなそうとして悪をなし自己嫌悪に陥り、生と死
の問題もなに一つ解決出来ずにいる。
なぜこのような状況に陥るのか、ここを深く考えることが「基本的公案」と
真に出会うことになるのであろう。
何故ならばこの「どうしてもいけなければ どうする」は人間苦の問題に深
くかかわる公案だからである。
漠然とした不安(苦)を感じ生きているこの自己はこの現実を今生きている
自己であるがその根本には苦しまない自己がありその矛盾に苦しむのが人間
苦の本質である。
人間苦の裏には不苦という事実がある。
何故ならば心と身体が分裂していない心身一如の状態、ものごとが分かれて
働き出す以前の状態(純粋経験)においては苦というものはないからであ
る。
何かに依ってたつ自己、言い換えれば何かであることで悩む自己は本来的に
苦しむように宿命ずけられている。
例えば愛と憎しみ、生と死の問題は人間の日常にある最大の問題であろう。
愛が失われた時の悲しみや憎しみ、死の恐怖と絶望、人はそのことを予感し
つつ愛さずにはいられないし、生きることを止めることが出来ない。
それは我々の日常の底の底に働く命の不思議さでありそこに宗教があり我々
を越えたものがある。
そこに我々の自己が目覚めた時「どうしてもいけなければ どうする」
を基本的公案として受け取ることができるのであろう。
久松先生は人間を水と波の関係で説明する。
水の表面が波立ち動揺しても水の底にはいかなる動揺も無い。同じ水であり
ながら波立ち動揺するのが日常的自己(有相の自己)、穏やかな底が本来の
自己(無相の自己)である。
水が水を覚する。すなわち動揺なき安定があるから波がおこることを。
中世は自己が主体ではなく、他律的宗教律が人間を支配したが、近代に至り
理性哲学が確立し人間は神から自立した。
しかし人間存在の矛盾(生死、善悪は存在非存在、価値反価値の問題)二律
背反を理性は解決できない。
中世以前からの他律から脱し、自律の近代理性を手にしても人は苦から脱し
得ないのである。
久松先生はこの自律、他律、無神論の統合としての在り方をポストモダンの
人間像として提起したのである。
ともすれば歴史的禅の世界は寺院の中に篭り、自己の探求のみに終始したき
らいがある。彼はこれを批判し自己の自覚がこの現実世界の中で働き多くの
不幸を作ってきた今までの歴史を反省し主体的に新しい歴史の創造を希求し
たのである。
ここからは以上に関連した近代哲学への道を道を切り開いたキルケゴールについて触れてみたい。
キルケゴールまでの西洋哲学は、合理主義哲学でした。
合理主義というのは、理性によって真理に到達しようという考え方です。
それ以前の時代は、キリスト教が真理でしたが、17世紀のデカルトの時代から、人間の認識や論理を重視して、物事の本質を客観的に探究する近代哲学が始まったのです。
それがヘーゲルによって体系化され、人類の精神は弁証法によってやがて絶対的真理にたどりつくと結論され、体系的な合理主義哲学は完成したかに見えてきたのです。そんなヘーゲルが一世を風靡していた19世紀に現れたのがキルケゴールです。
彼の考えは、ヘーゲルのように一般・抽象的な概念としての人間ではなく、彼自身をはじめとする個別・具体的な事実存在としての人間を哲学の対象としていることが根底にある。
「死に至る病とは絶望のことである」といい、現実世界でどのような可能性や理想を追求しようと<死>によってもたらされる絶望を回避できないと考え、そして神による救済の可能性のみが信じられるとした。
これは従来のキリスト教の、信じることによって救われるという信仰とは異質であり、また世界や歴史全体を記述しようとしたヘーゲル哲学に対し、人間の生にはそれぞれ世界や歴史には還元できない固有の本質があるという見方を示したことが画期的であった。
キルケゴールは、人は徹底的に孤立した存在であるとします。自分の中に真理ないということは他人にも真理もないということです。人に真理がないということは、他人に寄りかかりすぎても真理というものを見つけられないのが明白。神に頼るしかないのです。
でも、そこで他者に頼らずに自己を徹底的に見続ける視線が必要となります。
そうして自己と対峙し続けた人こそが、キルケゴールのいう単独者として生きることに他ならないのです。
おのれを捨てる者が神を見いだす。
おのれを捨て、自己から解放された人、このような人こそ慰めと救い主の神を見いだした人である。真の信仰を持つとは、人は皆単独で神と結び付かなければならないのです。
西田幾多郎(彼はキルケゴールに大きな共感と影響を受けた)はこのことを次のように言います。
人間は、自己矛盾的存在である。それを意識するのは、死を自覚した時である。死の自覚において初めて人間は、神と逆対応的関係を築くことができる。
しかし、神と人間とが逆対応的関係にならなければならない根拠は、何処にあるのであろうか。
西田は、人間は、その存在そのものが根本悪であると考えている。人間は、生来的に生と死という矛盾を抱えた存在である。従って、人間であること自
体が根本悪である。
このことが、自己が自己の在処に迷う原因であり、宗教を問題にしなければならない根拠である。このように、人間の存在が根本悪であるということを認めることによって初めて、神と人間との逆対応的関係が問題にされることになる。
人間は、根本悪である。そして、神との逆対応的関係を築くことによって、人間の根本悪は初めて解消される。
つまり、真の自己になるということである。ここに、道徳と宗教との断絶、更には、道徳と宗教との本質的な異方向性が明確にされる。つまり、
「道徳は一般的であり、宗教は個人的である」
神と人間との間には、絶対の断絶が存在する。これが、神と人間とのパラドキシカルな関係である。
以上のことは神が自己矛盾的に人間であるということを言っている。「神人は矛盾の符号であり、大工の子が神であるこのパラドックスが我々の行為の根本的原理である。
絶対矛盾的自己同一の個物的多として、我々の自己と絶対との関係は、大工の子が神であると云うことでなければならないことである。個人が自己矛盾的に神であると云うことである。
ここに人としての自己が神になる、いわゆる覚りの根拠があり、その契機が「どうしても いけなければ どうする」かなのである。