忠臣蔵の考察 その4
赤穂浅野家と火消し
画像は当時の大名火消しの装束
赤穂浅野家は、代々消防に力を入れていました。初代の浅野長直(あさのながなお)は防火・消火の研究に熱心で、大火の際には自らが陣頭指揮をとり、燃えている家屋の上へ飛び乗って消火したといいます。
孫の長矩(ながのり:内匠頭[たくみのかみ])も、江戸在留中の元禄4年(1691年)に本所[東京都墨田区の一地区]の火消大名に任命されています。
元禄11年(1698年)の江戸の大火で吉良上野介(きらこうずけのすけ)の邸が全焼しましたが、このとき消防の指揮をとっていたのが長矩でした。邸を守りきれなかったことを吉良が恨みに思い、後に刃傷事件を起こす対立につながったのではという説もあります。
赤穂浪士の討ち入り装束といえば、誰もが袖に山形模様[雁木模様(がんぎもよう)]の揃いの羽織を思い浮かべるでしょう。
しかしあの装束は『仮名手本忠臣蔵』の創作であり、実際は、頭巾に兜(かぶと)、鎖帷子(くさりかたびら)を着込み、上に黒の小袖、火事装束に似せた黒ずくめであったようです。
赤穂浪士たちの討ち入り時の火消し装束には意味がありました。火事装束に似せた「火消の姿」は「火の廻りの役人」の意味があり、単なる消防士ではなく、幕府公権力、警察機能そのものの象徴で、禁中・公家・武家の門内へ案内なし、許可なしで自由に出入りできました。
内蔵助一同がこの姿であれば、徒党を組んでの押し込みではなく火消し集団として周辺大名の公儀への通報を防げるという思惑がありました。
勿論主君の仇を討とうとした赤穂浪士たちの義侠心に感じるものが周辺大名にはあったので吉良邸からの逃亡者の見張りをしたほどでした。
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