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科学技術と宗教の融合

中世のカトリック宣教者は布教にあたり文化的に彼らより劣ると思われる国民に向かって星や太陽の運行から整然とした秩序体系を調和と美として説明してきた。何か神秘的で壮大な動きがあると教えたのだ。

実測できる星の周期からその原動ともなる得るべき目に見えない大きな力を神として日本人の民衆にも説教した。これは探求心旺盛な日本人が一時90万とも70万人とも信者になったゆえんである。科学と宗教の融合がキリスト教普及への大いなる力となったのです。

このように天文学等を神の存在根拠とした彼らはそれを布教の道具としながら技術社会の根幹を作り上げ経済的軍事的優位を築きながら、信仰と技術の両面からキリスト教の布教と植民地化を成功させた経緯がある。

このような信仰と技術を結合した概念は近代技術社会の興隆とにつながり近世では西洋社会が世界をリードする根拠となった。

これら概念は哲学や物理学天文学を発展させたが中世での科学知識と宗教の接近が近年での物理学の矛盾を解決し新たな哲学や物理学を発展させる契機となっている。

その一つが世界のあり様を分類するmacro とmicro的世界観なのだろう。 科学技術が益々深まる昨今、理論物理学や電子の世界、素粒子の世界といった超微細な世界にその探求が及んでいる。

素粒子物理学では何もない空間、「真空」にも水が氷に変わる(相転移)ように高いエネルギーを持った真空が低いエネルギーの真空に相転移をするといいます。

インフレーション理論は、誕生直後の宇宙は真空のエネルギーが高く、これに互いに押し合う力(斥力)が働いて宇宙は急激に膨張すると説明します。

真空のエネルギーに満ちた空間は互いに押し合うことをアインシュタインの相対性理論が示していますが、急激に膨張した宇宙では相転移がおこり、水が氷に変わるときに熱が放出されるにように真空のエネルギーも相転移によって膨大な熱エネルギーを放ち、この熱によって宇宙は超高温の火の玉(ビッグバン)になったというのです。

近代物理学では存在をエネルギー、活動、過程などと関連させてその動的関係性の中から論じる。これらから相転移の理論は仏教の物の相依性相関性からの影響というか関連性が多分にあるのだろう。

宇宙の根幹をつくり上げるエネルギーというものはモノの極限、つまりこれは、micro 世界でもあるのです。

原子の世界をどこまでも研究し突き詰めて行くと、陽子・中性子・素粒子等が二十種以上も発見されている。これはmacro の対極であるmicro の世界であるが、微細な原物質にこそ、宇宙を作るエネルギーが存在するのだ。

つまり、それは人間自身の究極の中にも宇宙的素養が詰まっており、その偉大なる力を見い出す能力を有することこそ、人間が人間としての存在感を、自ら積極的に自認できることなのだ。

弘法大師空海の遺したものに真言密教がある。空海の密教は、全てのものは、永遠不滅な大日如来・・宇宙・・の根源のあらわれとする。

この大日如来の永遠の生命を「密」といい、密は秘密の密、つまり万物の奥に隠れているという意味ともう一つが密度の密、いわば、いっぱいものが詰まっているという意味がある。

その密教的世界観では、私たち人間の中には密が宿っているとする。その密とは三種類の密「身密・語密・意密」である。

身・語・意とは、からだ・言葉・心を示す。我々の身体はすなわち大日如来、つまり宇宙そのものであり、我々の言葉もまた大日如来、そして心も既に大日如来そのものになることが出来るという概念である。

密教の特徴は人間の身体に密が宿るという身体を全面的に肯定していることである。精神的涅槃を謳う仏教的教えの中での身体の肯定は、つまるところ感覚の肯定でありすなわち人間に備わる欲望の肯定を意味する。

この教えこそ、密教で説かれる即身成仏という教えであり現世においてこの肉体を持ったまま仏になれるという思想でもある。性的喜びの象徴としての身体と、欲望感覚を肯定することで、性をタブー視せずむしろそれを利用し悟りへ導こうということである。顕教で言われる「煩悩則菩提」ということであろう。

密教は極小(自己)において極大(宇宙)を認め、極めて微小なるものの中に全宇宙の神秘を見出し得るのを特徴とするから現代科学との相性はいいのであろう。夫々の部分は全体的連関の中における一部分にほかならないとし一部分を通じてその有機的全体的連関の自覚達成を目的とするのだ。

私たちが美しい夜空、宇宙を見上げた時、宇宙は実在していると確信できる。私自身この宇宙の一員であり全体であることを実感するのだが、科学的にみてこの宇宙は条件により有ったり、無かったり、するのだ。無だった瞬間、有になり、有を味わい無に還る。

対で生成された素粒子は真逆のスピンをもち粒子と反粒子に別れて誕生する。素粒子が別れてる間のみ物質として存在するのだ。

この粒子と反粒子が出会うと膨大なエネルギーを放ち消滅する。これが対消滅といわれている。これはmicroの世界での出来事であるが対極でもある宇宙でも同じことがいえるのだろう。

そういった意味においては、大乗仏教の空(非実在)は実在を生み出し、別の要因で実在しなくなるということを提示する。全ての存在は、本当は仮にそう考えておくだけで、実態は一刹那に実在して、一刹那に消えるものとしたのだ。

分子レベル於いても、人間の体は常に個々の細胞の生死を経て入れ替わっているから自己の身体に実態としての身体は存在せず、あわせて自我も存在しないということです。ですから人間の心身が空であることを唯識は説いています。これが仏教世界でいう、唯識であり、この考えは近代科学や思想に大きな影響を与えているのです。

唯識では、瞬間瞬間にて変化する人間の何かを継続させ、一細胞が繋がることで、過去を内在的に蓄積しながら次の生命が生まれるとします。

空の根幹は、有る、無いといった一現象の特定に限らず、全てのものを含む相互依存と同義である。だからこそ、万物は日に新た(=発展的変化)であり、全てのものは常に生成し、絶えず発展しているといえるのである。

空のあり方は、つまりは心のあり方でもある。人間を考える上で、無知から自己を確立し、しかしながら、自己に捉われない心を養う。

宇宙は原物質の集まりでもあるとすれば、原物質と自分は別物であるわけではない。

宇宙が自分であれば自己に執着しても仕方がないことである。自我を離れたところに無我の境地がある。自己でありながら捉われのない心に真の平安があるのです。

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