ラーゲリより愛をこめて
私は狭量な歴史愛好家なので太平洋戦争につながる歴史の勉強が好きではない。
それは、戦後多くの日本人がその背中に苦難を背負わされて生きていかねばならなかったという悔しさであり、なぜこんな戦争を日本人はやってしまったのかという後悔先に立たず的な反省からである。むろん家族にも戦争犠牲者を出してしまったという無念さもあるのだ。
2,023年1月3日家族が静岡市に買い物に行くという。ならば私は映画館に行こうと決めた。
本来好きではない戦争映画につながるであろう「ラーゲリから愛をこめて」を見ることにした。
終演時間を待ち合わせ時間として静岡市の中心部の映画館に向かった。
ネタばれだが、この映画は直接的な戦争映画ではない。
満州で終戦を迎え不当にもスパイの容疑を掛けられた日本兵(二宮)が帰国を待つ家族(妻は北川が演じる子供3人)の本に帰ることなく極寒のシベリヤで死んでしまう物語。
主人公は外語大卒業のロシア語の堪能者。捕虜収容所ではロシア語通訳として活躍するが不運にも癌で倒れ11年の抑留も報われづ死んでしまう。
主人公は遺書を残したがソ連側は遺書としての書き物をスパイ行為として認めなかった。
苦労を共にした4人の戦友というべき収容所仲間たちは、互いに主人公の書いた遺書を夫々四つの物語に分けて暗記した。
どんな不当な権力でも人の心まで入ってこれないのだ。
家族への思いのたけを夫々の口述で届けようとしたのだ。
仲間たちは帰国後、夫々が家族を訪ねた、
暗記され断片化された四つの遺書は口述され完全な形で無事家族に届けられたのだ。そんな情景描写や収容所で飼われていた犬との交流も涙を誘う映画だった。
何故ポツダム宣言の受託内容やジュネーブ協定に違反する60万弱の日本兵が不当なシベリヤ抑留の憂き目にあったのか。それは二つの原因があったと考えられる。
昭和20年(1945年)2月のヤルタ会談で米英とソ連が結んだ密約があり、スターリンはそれ以前から日露戦争や日本のシベリア出兵への“報復”を考えていた。
スターリンが国際的な犯罪を強行できた一因に、日本政府が終戦のために進めようとした和平交渉の影響がある。
日本政府は、敗戦濃厚な英米との調停を愚かにも日本報復を狙うスターリンに依頼していた。
その調停文章の下案にはソ連への見返りに日本兵の労力提供があったことだ。捕虜の労働力を戦利品として考えていたスターリンの意向にあわせ、彼の提案に応えようとしたのだ。これは一種の棄民工作で日本側にも多くの責任がある。
二つ目はこうだ。
スターリンは8月16日にポツダム宣言9項に沿って「武装解除した日本兵は帰国させよ」と命じていたが、22日に米大統領トルーマン(1884〜1972)から「米国はソ連の北海道占領に反対する」と通告されると、翌23日、一転して50余万人余の日本兵のシベリアへの移送を命じている。
即ちシベリア抑留は北海道占領をスターリンが断念する代償として命じられたのだ。
60万近くの不当な抑留と6万人近くに及ぶ死亡者を出したシベリヤの日本兵抑留は、日本の戦争指導者の棄民政策であり、今もクロアチアへの犯罪的侵攻と繰り返すソ連・ロシアの変わらぬ犯罪体質の犠牲であったのだ。
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