日本人の思想 2
封建制が定着する以前の日本では仏教が日本思想の本流を占めた。聖徳太子によって政治的に導入された仏教文化は奈良時代に「国家鎮護」の思想として完成されたのだ。
平安時代になると、「国家鎮護の思想」の代わりに密教が一般的になった。疫病退散や当時の宮廷人の間で解決できない事件や災難は宮廷内に密教の僧が出向いてきて加持祈祷が盛んに行われた。疫病や飢饉も度々起これば、「末法思想」という悲観主義が一般的になり、この世界での命をなげうって未来の声明を強く称揚する浄土思想が広がった。
武士が政権を握る鎌倉時代が始まると、新しく起こってきた社会階級(武士)のための「新」仏教が現れた。
古代の日本では、仏教の到来が、国家の建設や中央集権化と密接に関連している。聖徳太子と蘇我氏は古代日本の宗教(神道)を牛耳っていた物部氏を戦争で打ち倒し、体系的な法典と仏教に基づいた国家統治の計画を起草した。
推古天皇の摂政宮である聖徳太子は蘇我氏と協力しながら「外国の」仏教に深い理解を示し仏教によって国の政治を安定させようとした。
仏教の力で国の平和と安全を得ようとする思想は「国家鎮護」思想と呼ばれる。奈良時代に、特に聖武天皇の時代に、国分寺・国分尼寺が全国に建てられ、東大寺と大仏が奈良に作られた。唐の鑑真が幾多の遭難にたえながらも東大寺の戒壇をもたらすために来日したこの時期、国家による仏教政策が頂点に達した。
奈良仏教が「国家鎮護」思想の面を強く持っている一方で、平安仏教は国の平和と安全だけでなく個人の現世利益ももたらした。それらが強く禁欲主義的な実践、つまり山中での加持祈祷を行ったため、これらの仏教は密教と呼ばれる。空海は中国の秘密仏教を学び、真言宗を開いた。最澄は中国の天台宗を学び、法華経の精神こそが仏教の神髄であると固く信じ比叡山に法華経の根本道場を開いた。
末法という「罪深い時代」である平安時代に現世を信じる可能性は否定され、死後に仏教の楽園に転生することを求めることが流行した。「後世にこの世界で仏教が廃れる」という考えとともに、仏教の楽園へ連れて行ってもらうという「浄土」思想が広がった。空也が諸国行脚して阿弥陀如来への帰依を説いたのもこの時代である。
浄土信仰は平安時代末期に浄土宗によって始められたもので、浄土宗を開いた法然は、他の禁欲的な実践を完全に廃し、阿弥陀如来の力による救済を説いた。彼は弟子に「阿弥陀如来を信仰し熱心に「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽往生できる」と主張した(専修念仏)。彼の弟子の親鸞は新たに浄土系の宗派を開き、法然の教えを果たしぬいて、阿弥陀如来の力に完全に頼る他力本願を説いた。親鸞の思想は阿弥陀如来による往生の対象者は俗世の自分の罪を自覚した悪人こそが優先される悪人正機論を唱え民衆の大いなる支持を得た。また時宗を開いた一遍は「踊念仏」を始めた。
浄土信仰とは対照的に、禅宗は坐禅による自力本願を説いた。栄西は中国の臨済宗を学んだ。彼は弟子に「公案」(難題)を与えてそれを解かせ、それによって弟子たちは自己啓蒙した。臨済禅は鎌倉時代の上流武士階級から広い支持を集めた。道元は中国の曹洞宗を学んだ。彼は弟子に「只管打坐(しかんたざ)」(ひたすら坐禅すること)による覚醒を説いた。曹洞禅は地方の武士から支持を得た。
新仏教の旗手、日蓮は、はじめ天台の思想の影響を受けていたが、やがてその思想を発展させ日本人の仏教というべき独特の思想へとたどりついた。
日蓮が生きた鎌倉時代、日本は戦乱状態で、政治は民の幸福を目指しているとはとても言えない状態で、民は貧しく不幸な状態におかれたままになっていたが、そうした政治の状況を目の当たりにし、また仏教界にもすでに諸宗があるにもかかわらず、そのどれも民の悲惨な状況を十分に改善する力になっていない状況をふまえて、日蓮は「諸宗は本尊に迷えり」と指摘し、法華経こそが正しい教えであると説き、「南無妙法蓮華経」と唱えることを広めた。
日蓮の思想は、法華経による社会改革であった。
人々にこの世で境涯(価値観や生き様)を変え、この世をたくましく生きることや人々がこの世を生きている間に互いを幸せにするための教えを含んだ多分に現世利益的であった。
日蓮は政治の実態を見たり、様々な経典の内容を学んだ後に、「民を救うためには他の経典ではなく法華経を選ぶべきだ」と見定めたのである。
そして日蓮は「信心の目的というのは死んでからではなく」一生のうち(つまり生きているうちに)に「仏に成る」こと(正しい境涯を得ること)「一生成仏」と説き、また自身も社会の問題を解決すべく具体的に行動し、当時の権力者(幕府・将軍)に対しても、「(権力者のためではなく)民の幸福のために政治を行うという正しい思想を立てるべきこと」を説いた。
また「汝 須く一身の安堵を思わば 先ず四表の静謐を祷らん者かと説き、そうすれば結果として国も平和になるといった内容の手紙を届け(『立正安国論』)、結局は「皆が「南無妙法蓮華経」と唱え法華経の教えを実践することで(様々な働きによって)やがて国の平和が実現されてゆく」とした。
なお、日蓮の教えには西洋のキリスト教の「受難」思想とも相通ずるような面があり受難を予期しつつも、むしろそこにも人生の意味を見出す思想が含まれていることは、様々な学者から指摘されている。
日蓮が広めた教えは日蓮宗となった。上述のような内容の教えなので、本尊(=祈る対象)が法華経以外になることを好まず、また積極的に他の宗派の信者にも働きかけて、他の本尊を捨てさせ法華経に向かわせ(=「破折」)ようとする傾向があり、既存の仏教宗派とは緊張関係が生まれた。
3へ続く