「本質とはたらき」
先回の良寛で触れた体と用の話を少し触れなおしてみたい。
体用は中国に特有かつ典型的な概念で、東アジアに受け継がれてきた三つの宗教─儒教、道教、仏教─のすべてにおいて、といわれる学的基礎づけを与える構造的枠組みである。
あらゆる類の存在、組織、現象、概念、出来事をより深く、より根源的で、より内的で、より重要な、さらには目に見えない諸側面を指す。
また、空と形(色)、智慧と方便などの二元性を解消する方法として
も使われる。
しかし仏教と朱子学のどちらにも見られる最も重要な用法は、特に人間の心の内奥に潜む次元を「体」とするものだ。つまり活動の領域に入る以前の、純粋で、内在的なありのままの心である。
体と用をさらに説明すれば「体とは根本的なもの、第 一性的なもの、用とは派生的、従属的、第二性的なもの、を相関的に意味 すべく用いられていることである」。
体用という対概念の目的は、一見別々に見えるが実は別ならざる二つのも のの不可分性を示すことにある。禅文献の最初期の古典的作品である『六祖檀経』は、灯火とその光の類比を通じて体と用との間の関係を描いて見せる。
したがって、中国仏教の諸文献における体用という解釈学的手法の目的は、主客、手段と目的、因果、生滅、そして生死のような二分法 に見られるような、二元論的な思考に由来する誤った分別を取り除くこと である。
この世界の根源として能動的に働く空的主体と変化する事物、色なる現象界を説明する大乗仏教思想は空的主体を真如として理論を組み立てる。
それは縁起故に空ではなく空故に縁起と説かれる。空の故に事物が現じその世界こそが絶対現実である。
即ち大乗仏教の世界は現実肯定的でありその意味に於いて西洋のそれは現実否定的である。
体と用の分別から時空というものを見れば、空間と時間の未だ分かれざる時点においては空間は時間である。
空間は過去、現在、未来を絶する永遠にとどまる時間であり、また時間は、三次元の方向を絶する止まらない空間を意味する。そこから時間空間が起動されると体と用が分別される。
そこにおいては体は空であり空間である。用は色であり不空であり時間である。
体(本質)は空間であるから用(働き)即ち時間が生起する根源であるばかりかそれが経過する場所となる。
ですから空間(体)があって時間(用き)があるのであって自身の中に体が直感されるとき時間という作用が起こるのだ。時間は物と一つになって存在するのであり,時間は実体ではない。そして,天体の運行であれ、砂時計のよう反復するものであれ、計測の手段により時間の意味も変わる。つまり
時間の意味は不変ではない。このことからしても,時間は実体ではな い。
体は客体ではなく自己自身、自己の主体であり現在でもある。時空というものが自分に他ならないと言える根拠となるのだろう。