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アイシュビッツ解放80年


今年はアイシュビッツ解放から80年という。
私はかってこのNoteに「アイシュビッツの絶望と希望」と題して小文を投稿した。https://editor.note.com/notes/nfb6ab7210645/edit/
その最終節ではこのような文で終わっている。
生きる意味は何か問うのではなく、むしろひたすら、生きることが私達に期待されていると考えるべきなのだろうか。

朝の来ない夜はない。絶望の対極は希望である。自己矛盾的に絶望のあるところ希望があるのだ。

私のような自己を究極に追い込むような人生を送ったことのないものが、最低限の生を否定され人間の尊厳どころか絶望さえも否定されたホロコーストの収容者、ユダヤ人の人たちを爪の先ほども論究する立場ではないと自覚しながら再度のアイシュビッツの絶望について考えた。

前述、前段の部分は、ナチスの強制収容所から生還した精神科医ヴィクトール・E・フランクルの言葉です。フランクルは、人生に対する見方(立脚点)を一変させることを求めており、人間は人生から問われている存在であると述べています。
後段の、「絶望の対極が希望」についてですが、Yahooの質問箱にこのような問いというか感想が投稿されていた。
「希望の反対が絶望って おかしくないですか? 希望の中に 悲しみや切なさは存在できるけれど、 絶望の中には 一筋の光さえ射さないのですよ? この二つを対極に位置付けるには、 あま りにも絶望が重すぎます。 私は、「絶望」に対義語は存在しない と思っています。 そして、 希望の反対は失望だと思っています」

一般的にはそのように思う人が多いのだろうと思う。その回答にこのような投稿がなされていた。
「希望」 これは当然かなえられるべき欲望の障害の具体的な解決策の存在を云う。 「絶望」 これは希望の無い状態を云う。 「失望」 これはいかなる欲望においてもその障害に対する解決策の破綻を云う。 金持ちになれなくなって「失望」する。 貧乏で生きていくことができなくて「絶望」する。

生きることさえ許されない失望を絶望と捉えてもよいのかもしれない。
WEbにこんな記事もあった。
「38年前、私は、医者から見放される大病を患った。医者からは「もう、命は長くない。との宣告を受けた。それは、文字通り「生死の体験」であった。

自分の命が刻々失われていく恐怖と絶望の中で、まさに「地獄」のような日々を体験した。それは、世の中で使われる「悪夢」という言葉が、なまやさしい言葉に聞こえる日々であった。それが「悪夢」ならば、鬼に追いかけられようとも、その夢から覚めれば、鬼は消えていく。しかし、この「生死の病」は、寝ている間は忘れていられるが、目が覚めれば、刻々、命が失われていく自分の姿が、現実である。何度、夜中に目を覚まし、絶望の中で、深い溜息をついたことか。

この絶望のどん底から、どのようにして戻って来ることができたかは、その地獄の日々の中で、天の声に導かれたのであろう、ある禅寺との縁を得て、そこに行き、その寺の禅師から与えられた一つの言葉によって、救われたのである。
それは、短い言葉であったが、奈落の底を彷徨っていた一人の人間にとっては、まさに魂に響く言葉であった。

それは、次の二つの言葉であった。

「そうか、もう命は長くないか。
だがな、一つだけ言っておく。
人間、死ぬまで、命はあるんだよ!」


「過去は、無い。
未来も、無い。
有るのは、
永遠に続く、いまだけだ。
いまを生きよ!
いまを生き切れ!」

は、この2つの言葉によって、大切なことに気づかされた。

たしかに、その通り。医者から「命は長くない」と伝えられ、その絶望の中で、まだ、命はあるにもかかわらず、心が、もう死んでいた。

そして、毎日、毎日、「どうして、こんなことになったのか」と、過去を悔いることに時間を費やすか、「これから、どうなってしまうのか」と、未来を憂うることに時間を費やしていた。そのため、かけがえの無い人生の時間を、この「いま」という一瞬を、精一杯に生きてはいなかった。

この禅師の言葉によって、その自分の姿に気づいたとき、私の心の奥深くから、一つの覚悟が湧き上がってきた。

「ああ、この病で、明日死のうが、明後日死のうが、構わない!
しかし、この病を悔いること、憂うることで、
このかけがえの無い時間を失うことは、絶対にしない!
今日という一日を、精一杯に生きよう! 精一杯に生き切ろう!」

その生死の体験を通じて、死生観を定めることができたかもしれないが、
そうした体験を持たない者には、死生観を定めることは難しいのだろう。たしかに気持ちは、理解できる。
しかし、あの大病が与えられるまでは、「死生観」を定めることはできなかったのだろう。しかし、それでも、やはり申し上げたい。

我々は、戦争や大病の体験を持たなくとも、
深い「死生観」を定めることはできる。
と、
こんな内容であった。

これに関する禅語にこのような言葉があります。
大死一番絶後再蘇 だいしいちばんぜつごにふたたびよみがえる、と読みます。生死を分ける問題が起こった時、その崖から身を投じ(肉体の死ではなく、精神的な死)てみろと迫る禅の公案です。
 勝負の世界で突き抜けた実績を残した人の多くは、このことをよく言います。つまり、勝ち負けを超えたところで自分の力を出し切るのだ。
勝ち負けは相手があってこその話。
そのレベルにいては、ほんとうの力は出し切れない。ある意味、負けてもいいと思う。勝負への拘泥を捨てる。
「たったの一瞬のこの時」大死の境涯に至れば力を発揮できる。その境涯こそが、おのずと人は強くなれるのだ。
闘うべき相手は、自分なのだとの自覚をもてるのだ。

哲学者西田幾多郎はこの絶望があるから希望がある矛盾的見解をこのように言っています。
絶望即希望、希望即絶望。一見矛盾しているように見えるこのような2つの要素が、実はより高いレベルで統一されている状態を指します。

たとえば、コーヒーが「熱い」ことと「冷たい」ことは一見矛盾しているように見えますが、実はより高いレベルで統一されています。西田哲学では、行為的自己の立場から世界を捉えようとしています。世界を外側から客観的に眺めるのではなく、世界の内側から世界の構成要素として行為する自己を捉えようとしています。これが絶対矛盾的自己同一です。一見矛盾しているように見える2つの要素が、実はより高いレベルで統一されている状態を指します。これら一連の表現は、無力 となることが有力であるという矛盾そのものが自己を本質に向かわさせることを言います。
これこそが、西田幾多郎の思想における統一概念です。

京大の西田の弟子であった久松真一先生が主催した京都のFAS協会の総会に私が参加した時であった。
久松先生の高弟の一人で、阿部正雄さんという著名な宗教哲学者であり奈良教育大で長く教鞭をとっていた先輩道人が記念講演としてこんな話をしてくれた。
阿部正雄さんは「非仏非魔 ニヒリズムと悪魔の問題 」や「虚偽と虚無 宗教的自覚におけるニヒリズムの問題」等の著作があり、西洋の学会でもその名が知れている学者であった。
白い着物に上品な袴姿の人格が偲ばれる風貌の持ち主であった。
ナチスの人道に反する行為に宗教の無力さを感じたヨーロッパから一人の訪問者が自宅に訪ねてきたときの話であった。内外で著明な方であるからの訪問だったのだろう。
その人が、「人間が生きる希望を絶たれた時、何を指針にしたら生きる希望が生まれてくるのか」という意味合いの質問したという。
希望がなければ人生の一切が無意味であるからと言う事なのでしょう。
阿部道人は、その時この様な絶後再蘇と言われたことを、今ももって記憶している。





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