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徳川家康 その三
写真は築山殿
駿府の今川家で人質生活を送っていた家康(当時は竹千代)は、元服して元信と名を改めた。義元は自分の名前の一字を与え元信としたのだ。
二年後の弘治三(1557)年に義元の姪にあたる築山御前(当時は瀬名姫)と婚姻しました。 翌年には元康と改名し、永禄二(1559)年には長男・信康が誕生。 さらに永禄三(1560)年には長女・亀姫も誕生した。
松平元信(その後松平元康に改名)が今川一族の娘婿になるということは今川氏一門に准じる地位が与えられたことを意味している。人質であった元信を今川義元がいかに信頼していたかが分かろう。
戦国の世は何がってもおかしくはない。亀姫誕生の約半月前に起こった桶狭間合戦により、築山御前の叔父今川義元が戦死した。まさかの結果であった。
今川方の拠点・大高城に兵糧入れをしていた元康も敗走し、駿府には戻らず我が城、岡崎城に入ってしまいます。
三万とも四万ともいわれる今川軍に対し織田三千の急襲を受け京都に上り天下に号令をかけるつもりであった街道一の綱とり義元が敗れたことにより戦国時代の東海の勢力バランスは大きく動いていくのです。
岡崎城は元康の生まれた城ですが何故簡単に入城できたのかいえば当時岡崎城は今川方の支城のひとつで義元戦死の報に驚いた今川軍が放棄し、城主不在となっていたからです。
無事に三河松平家の本拠地、岡崎城に帰還した元康は、その後も駿府へは帰りませんでした。
駿府に残された築山御前母子はどうなったのでしょうか。
合戦が終わっても、待てど暮らせど夫元康は赤子を抱えた自分のもとには帰ってきません。それどころか元康は故郷の岡崎城で、叔父義元を討った織田信長と同盟を結んでいたのです。
松平の将来を託した駿河の守護大名今川家は以後凋落の一歩をたどっていきます。しかし今川館に残された家族の無事は如何にと祈るばかりです。これが家康の三度目の我慢の時代でした。
永禄三年(1560)五月。桶狭間の戦いで今川義元が敗れると、長年、人質として今川家に属していた元康は、独立へと動き出した。ただ、息子の信康と正室の築山殿(御前)は、共に義元の息子で後継者の今川氏真(うじまさ)のもとに人質として留め置かれている状況であった。
今川家から見れば、信長は当主の首を上げた憎き敵将。そこと手を結んだ元康の妻子は、いつ殺されてもおかしくない状況です。幸いにもこの時、元康の家臣・石川数正が策士ぶりを発揮し母子を救出、岡崎へ連れ帰ります。
永禄四年(1561)、伯父の水野信元から進言を受けた信長から和睦を打診されたときも、元康は即決しなかった。
しかし、松平氏が生き残る方法としては今川方から離れ、織田方に付く事がベストであった。
こうして織田との同盟を決意した元康は永禄五年(1562)、自ら信長の居城である清州城に赴き、会盟した。
そこでこの同盟は清州同盟と呼ばれた。
外交的安定を得た元康は三河統一へと乗り出した。そこに発生したのが領内の一向一揆であった。
一揆には、東条城主・吉良義昭や上野城主・酒井忠尚ら家康と対立する領主層も支援していた。
しかも、本多正信や松平家次らの様に門徒となっていた家臣が一揆側に立って戦うなど、家康は追い込まれてしまったのである。
ただ、一揆側は、連帯しての戦い方が出来なかったらしい。
次第に家康が反攻に転じ、翌永禄七年の二月には、ようやく三河一向一揆を鎮定した。
これにより、吉良義昭は上方に逃亡し、酒井忠尚は今川氏真を頼って駿河に出奔した。
その一方、門徒であった本多正信や松平家次らは帰参を許されている。
家康自身も浄土宗に帰依していたから、信仰心から一揆に付いた事情を理解していたのだろう。
ただし、家康は、国内の本願寺派の寺院・道場は全て破却している。
家康が三河一向一揆を鎮定した後、今川方であった二連木城主・戸田重貞、牛久保城主・牧野成定といった東三河の諸将が帰順した。
さらには、今川方の吉田城主・大原資良(小原鎮実)や田原城主・朝比奈元智を攻めて城を奪った。
こうして家康は、三河一向一揆を鎮定して、わずか4カ月で東三河も平定し、三河を統一がなったのです。
三河の統一を果たした家康は、永禄八(1565)、当地の為に奉行を設ける事にした。
奉行に登用されたのは、高力清長・本多重次・天野康景の三人で、俗に「三河三奉行」と呼ばれ、「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三平」と謡われている。
作左は本多重次の通称「作左衛門」で、三平は天野康景の通称「三郎兵衛」の事を指す。
「仏」のように仁政を敷いた高力清長、「鬼」の様に軍事に秀でた本多重次、「どちへんなし」即ち偏りがなく公平な天野康景をもって統治したのである。
三河統一をなした元康はこのころ松平姓から徳川姓に変え、名も家康とした。
なぜ家康は「徳川」へ改姓したのか。
翌永禄九年(1566)、家康は勅許を得て「松平」の姓を「徳川」姓に変える事になった。
松代氏の先祖にあたる徳川親氏が、本領である上野の世良田を追われて三河に来たとき、松平郷の領主・松平信重の婿になった為だという。
だから本来の「徳川」に復姓するという論理であるが、親氏が上野から来たというのは史実として確認出来ない。
それでも、松平一族の中で家康の家系だけが徳川を姓とする事により、別格である事を示す事になった。
そのとき同時に、従五位下三河守に叙任されたのであるが、これはかつての主家今川義元と同じ官位である。
このとき、家康は三河の戦国大名として、名実ともに認められたのだった。
同盟者織田信長は同盟への証のため自分の娘徳姫を元康の長男信康へ嫁に出します。しかしこの同盟は対等ではなく尾張主導であったため三河の家康は四度目の大きな我慢を背負い込むことになったのです。
築山御前は、長男・松平信康の正室である徳姫が父信長に送った築山御前と信康の罪を訴える十二ヶ条の訴状により、天正7年(1579年)、岡崎城から元康の居城、浜松城に向かう途中、小藪村の佐鳴湖畔(富塚御前谷)で元康の家臣・野中重政に殺害されました。
築山御前三十八歳の時のことでした。家康との間に生まれた信康も九月十五日に二俣城で切腹しています。
築山御前の遺骸は浜松の西来院に葬られたほか、愛知県岡崎市の八柱神社には築山御前首塚があります。
築山御前の首は、織田家に首実検のために送られた後、石川数正(いしかわかずまさ)によって祐傳寺(現・愛知県岡崎市)に葬られ、その後八柱神社に改葬されています。
築山御前は、若き家康が人質となっていた今川義元の姪(めい)。
長男・松平信康の正室・徳姫は、その今川義元を桶狭間(おけはざま)で討ち果たした織田信長の娘である。徳姫は父信長の威勢を借りたわがままな嫁であったのだろう。スパイのように夫信康母子の様子を実家織田家に日ごろから送っていたと思われる。
徳姫からの築山御前と信康謀反と書いた書状を安土城に届けた家康の忠臣・酒井忠次は、信長に対して何らの申し開きをしなかったことから、築山御前と松平信康の処分は家康に委ねられます。
家康は苦渋の選択の結果、築山御前は浜松城への入城すら許されずに斬殺、そして長男の信康は二俣城に幽閉の後、切腹させた。
築山御前と松平信康が甲州武田に内通したとは考えづらいことから、冤罪であったことは現在ほぼ確実視されています。
徳姫と築山御前が不仲、いわゆる嫁姑問題があったのか、あるいは家康と信康の不仲説、はたまた酒井忠次と信康の不仲説など、諸説あって真相は定かではありませんがこれから天下を目指し三河の地から大きく飛躍しようとした家康にとって長男を失ったことは生涯の痛手であったことは事実であろう。四度目の我慢の時代であった。
その四へ
https://note.com/rokurou0313/n/n033b633ddf85