忠臣蔵を考察 その3
事件があった元禄14年、江戸幕府の将軍綱吉は、溺愛していた母の桂昌院を従1位にすべく朝廷に働きかけていた。
吉良は綱吉と朝廷の仲介する高家肝煎として、公家の接待を仕切っていたゆえ桂昌院に贈位する要となる吉良の瑕疵をなるべく問いたくないという心理が働いた。
また吉良に綱吉から直接見舞いの言葉があったのは、吉良が幕府創設者神君家康の縁の松平三河の地を領有している親戚筋に当たるためともいわれる。
当時の武士社会の慣習からいえば、「喧嘩」が起こった際には「喧嘩両成敗」の法が適応されるので、浅野と吉良は「双方切腹」となるはずであった。
しかし吉良が脇差しに手をかけなかったという証言が事件の場に居合わせた者から得られたため、この事件は喧嘩としては扱われず、浅野内匠頭の一方的な「暴力」とみなされたのである。
当時の法令ではもし当事者が「乱心」していればそれを情状酌量の口実として利用できたが、吉良も保身からか、自分はなんの恨みも受ける覚えはない。内匠頭は乱心したのではないかと証言した。
この様な武家御法度に対する重大な違反行為は、お家断絶を招くことは必然であった。
戦争がない平和な時代となった元禄の御世で浪人となり主家を離れれば如何に再就職が難しく、家臣のその後の苦労を理解すれば「乱心者」としての裁定を受けいれていた筈である。
そうであれば、お家断絶は免れ、赤穂浪士事件は起こらなかった。しかし内匠頭は「自分は乱心したのではなく、私の遺恨があり、一己の宿意をもって討ち果たそうと思い、刃傷に及んだ」言い放ったため情状酌量されず、一方的に内匠頭が悪い事になった。
武士道とは、仕えた主君の恥辱を晴らすためには死をもかけることだ。しかし家臣の生活のことも考えず只武士の意地に拘った短慮で思慮深くない内匠頭の非情理な行動に巻き込まれたのが赤穂藩士達の悲劇でもあった。
浅野内匠頭の切腹
切腹場所である田村右京太夫の屋敷に到着して駕籠から降りた内匠頭、すでに厳重な受け入れ体制ができており、部屋は襖を全て釘づけにし、その周りを板で覆い白紙を張っていた[。
浅野内匠頭の切腹の場所は田村家の庭で、庭に筵(むしろ)をしき、その上に毛氈を敷いた上で行われた。
本来、大名の切腹は座敷などで行われるが、慣例を破ってまで庭先での切腹を行うよう老中から指示があったという。おそらくその背後に将軍・綱吉の強い意向が働いていたのだろう。
当時打ち首が屈辱的な刑罰だとみなされていたのに対し、切腹は武士の礼にかなった処罰だとみなされていたので、浅野内匠頭は切腹を言いつけられた事に下記のような礼を言った上で切腹をした。
「今日、不調法なる仕方、如何様にも仰せつけらるべき儀を、切腹と仰せつけられ、有り難く存じ奉り候」
(今日の不調法な行動はどのような厳しい処罰を命じられてもしかたのないところ、切腹を命じていただき、ありがとく存じ奉ります。
遺体は浅野家の家臣達よって引き取られ、菩提寺の泉岳寺でひっそり埋葬された。
その4https://note.com/rokurou0313/n/nb81d75dc3bf9