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東洋のマタ・ハリ


日本が満州国の建国に深く関わっていた時代、騒乱の中国では、結果不幸な一生を終わった男装の麗人がいた。
以下ネットの記事から転載
「東洋のマタ・ハリ」川島芳子。明治四十年(一九〇七年)清朝粛親王の王女として北京で生まれる。満蒙独立運動に奔走していた川島浪速の養子となり、後に上海で情報活動をしていた陸軍少佐田中隆吉と懇意になり、深く戦争と関わることになる。

 昭和六年(一九三一年)、満州事変勃発。北京から天津に逃れていた宣統廃帝溥儀は、甘粕正彦率いる関東軍の手引きで旅順に脱出した。このとき天津に残された皇后婉容を旅順に護送する大役を果たしたのが川島芳子である。満州国建国にともない、安国軍(定国軍)が創設され、芳子は総司令に就任する。昭和八年二月二十二日付け朝日新聞は、軍服の写真とともに「男装の麗人川島芳子嬢 熱河自警団の総司令に推さる」と大々的に報じた。〈しかし、実際にはそのいでたちとは裏腹に、彼女は何ら功績を立てたわけでなく、第一線にすら出向いていないというのが真相らしい〉(「男装の麗人川島芳子伝」上坂冬子)。

 昭和八年八月六日、ラジオ番組に出演し、余った時間に即興で歌を披露し、それがきっかけでレコードも発売されたほど人気だったという。

芳子をモデルにした村松梢風の小説「男装の麗人」(「婦人公論」連載)も一世を風靡した。

 昭和二十年、日本の敗戦にともない国民党軍に逮捕され、漢奸(中国の売国奴)として訴追を受ける。
二十三年に北京で銃殺刑となり、波乱の生涯を終えた。
「日本と支那の楔(くさび)となって生きる人間だ」と教えられ育った川島芳子。“2人の父”の願いを叶えるため、祖国の復興という夢を追い求め、生まれ持った性を捨てて勇ましく戦乱の中を生き抜くと誓います。

男の姿となっても、その端正な容姿と突飛な行動はつねに注目を浴び、「男装の麗人」として多くの人の心を惹きつけました。
死刑判決後も共犯者は明かさず一人で責任を負った彼女。遺体の服からは辞世の詩「家あれども帰り得ず...」が見つかった。

川島芳子は清朝の皇族に生まれ日本人の養女に。2人の父の背中を見て育つ

清朝皇族第10代粛親王(しゅくしんのう)の14番目の王女として、北京に生まれた金璧輝(きんへきき)(愛新覚羅顕㺭)(あいしんかくらけんし)。彼女こそが川島芳子です。

4歳のときに清国が滅亡すると旅順(りょじゅん)に逃れ、その2年後、日本の大陸浪人・川島浪速(なにわ)の養女として来日します。義和団事件で通訳として中国に渡っていた川島浪速は、日本軍撤退後も現地で雇用され、粛親王とは義兄弟の契ちぎりを交わすほどの仲でした。

〝2人の父〟を持つかつての王女は「芳子」の名を受け、日本で一般市民として学校に通います。

中国人蔑視が激しく、友人には恵まれませんでしたが、日本語はみるみる上達。日々の習い事をこなし、成績も優秀だった川島芳子は、飛び級をして首席で学年を終えました。

跡見女学校2年のときに川島浪速の故郷、長野県松本市に移住し、松本高等女学校に入学。父らの影響により、満蒙(まんもう)独立を果たすことを宿命と感じるようになるのです。

川島芳子は馬で通学!?異彩を放った学生時代

日本では一般の学生でありながらも、清朝最後の王女。学校には馬に乗って通学しました。ある日、手綱が解けた馬が教室に入ってきて、教室全体がパニックに。また雑巾を床に置くと足で拭いて、教師を呆れさせたこともあったといいます。

川島芳子は女と決別し断髪・男装。清朝復興の念願を追い中国へ

粛親王が危篤となり、川島芳子は川島浪速と共に中国に半年ほど滞在します。帰国後は女学校を退学し、自宅で学ぶようになりました。美しく育った川島芳子には異性からのアプローチが絶えませんでしたが、ある夜、それを快く思わない川島浪速に乱暴されてしまいます。

自身の描く理想と現実のギャップに幻滅し「女であることをやめよう」と決意したのは、17歳の秋でした。

突然頭髪を五分刈りにして男装をするようになった川島芳子は新聞に取り上げられ、その端正な顔立ちや生い立ちから熱狂的なファンが現れて一種の社会現象となります。

その後、満蒙独立運動の義勇軍を率いた将軍の息子、カンジュルジャップと結婚しますが、1年余りで家出。上海に渡り、陸軍の田中隆吉(りゅうきち)と出会ったことによって、彼女の人生は大きく変わるのです。

川島芳子は断髪し男装をして女と決別

幼くして日本に出された川島芳子には、異国での苦労に耐えるヒロイックで女性的な性格と、王女として清朝の復興を目指す男性的な性格とが共存していました。
さまざまな体験を経て、描く理想と現実に乖離(かいり)があることに幻滅した川島芳子は17歳の秋、“男になる”ことを決意したのです。

1931(昭和6)年に満州事変が起こると、川島芳子は関東軍の指示で清朝皇后・婉容(えんよう)を天津から旅順へと護送します。さらに翌年、田中の指示のもと、上海事変の引き金となる「上海日本人僧侶襲撃事件」に加担し、日本人工作員としてスパイ行為に及んだとされています。

川島芳子の野望はこれにとどまらず、3000人もの義勇軍を率いる総司令官として、熱河(ねっか)作戦に参加します。

以降は日本と中国を往来しながら、東京では講演を行い、天津では料理店を経営。1945(昭和20)年の日本敗戦後、漢奸(かんかん)(祖国反逆者)の疑いで中国国民党憲兵により逮捕されました。罪を逃れようと画策するも失敗し、死刑が確定。銃殺により40年10か月の人生に終止符が打たれたのでした。

川島芳子は熱河作戦で総司令官を務める

ある日、兄の知人と名乗る男が川島芳子を訪問します。彼の話と一貫した態度に、関東軍の熱河省侵攻のために結成された義勇軍の総司令官となることを決意。
すでに著名であった川島芳子は「東洋のマタ・ハリ 」「満州のジャンヌ・ダルク」と称され、改めて脚光を浴びることになったのでした。
東洋のマタ・ハリー第一次世界大戦中にスパイ容疑をかけられたオランダのダンサー)

昭和22年10月22日(1947年。 75年前の10月22日) 、川島芳子(40歳)に死刑の判決がおります。日本の敗戦後、潜伏していましたが 北平ほくへい(現・北京)で中国国民党軍に逮捕され、 漢奸かんかん (「国賊」の意)として裁かれたのでした。*

正義の味方のそぶりで「三国干渉」してきた列強も、一皮むけば“自国ファースト”で、清国に侵略し、清国は分割の危機にさらされます。

安価な商品の流入によって農村は疲弊、侵略とともにキリスト教も急速に広まり、それらに反発して起こったのが「義和団の抵抗」だ。

清国の 西太后せいたいごうも義和団を支持しました。しかし、2ヶ月足らずのうちに、8カ国連合(英、露、独、仏、米、日、伊、墺)が制圧し、北京に入城。西太后、光緒帝こうしょてい(西太后の甥)、清王朝世襲家の筆頭・肅親王しゅくしんおう家第10代・善耆ぜんきは西安に逃れました。その肅親王の娘(清朝第14王女。 愛新覺羅顕㺭あいしんかくら・けんし)が、川島芳子(日本名)です。*

旅順・大連を租借地にしていたロシアの南下政策を食い止めるという名目で起した日露戦争(明治37年2月8日の旅順のロシア艦隊に対する日本の奇襲攻撃から始まった)に日本は勝利し、本家の中国はそっちのけに、ロシアの利権をひきつぐ形で、遼東半島(関東州)の租借権満州南部の鉄道の経営権の大部分朝鮮半島の監督権、それらに付随する炭鉱の採掘権、森林の伐採権などを得て、「関東軍」(租借地や鉄道や日本からの移民を守る名目の軍隊。最初は1万人ほどだったがのちに70万人ほどに膨れ上がる)の駐留を認めさせます。

辛亥革命により明治45年清朝が滅亡すると(中華民国の樹立に伴い、同年清朝の 宣統帝せんとうてい 溥儀ふぎ 。“ラストエンペラー”)が退位、清朝276年の歴史に幕が下りる)、善耆(45歳)は通訳の 川島浪速かわしま・なにわ (46歳)の手引きで日本の租借地・旅順に逃れ、浪速を厚く信頼するようになり、日本との連携で清王朝を復興させる夢を抱きつつ、娘(顕㺭、芳子)を浪速に託したのでした。

芳子は大正4年(7歳)来日、川島の養女(戸籍には入っていない)として昭和2年頃(20際頃)までの12年間日本で暮らし、モンゴル族出身のカンジュルジャブとの3年ほどの結婚生活を経て、昭和5年頃(23歳頃)上海に渡り、満州国設立(清朝復興)のため暗躍するようになり

日本軍部の画策で昭和6年9月満州事変勃発。

関東軍参謀・板垣征四郎(満州事変勃発時46歳)は上海駐在武官(少将)・田中 隆吉りゅうきち (満州事変勃発時38歳)にその旨を伝える電報と送金をし、田中はその事件(目くらまし事件、スピン事件)の具体的な工作を川島芳子(満州事変勃発時24歳)にさせたようです。

その目くらましの事件が、「第一次上海事変」(昭和7年1月28日〜3月3日)です。抗日運動の拠点で中国労働者を買収し、日本人僧侶と信徒を襲撃させ、僧侶の水上秀雄を死亡、天崎天山ら2名を重傷にいたらしめます。

次に、上海在住の日本人による支那義勇軍団に資金を渡して襲撃グループに報復させます。これらを裏で操ったのが芳子だというのです。その後戦火が拡大し、両陣営の民間人を含む2万5,000人ほどが、死傷・行方不明になったようです。

「第一次上海事変」の目くらましが功を奏してか、同年(昭和7年)3月1日、満州国の建国が宣言されました。関東軍の暴発行為を批判した犬飼首相は5・15事変で凶弾に倒れます。

強硬な対満蒙作戦を企画実行した「関東軍」とそれを追認した日本政府と、満州国で清朝が復活することを夢見た芳子ら旧清朝関係者は、この時点では利害が一致したのでした。

その頃、大正12年から上海に通いつめていた小説家の村松翔風 が、中国側が停戦を望んでいることを田中に伝えに行きます。長年の中国通いでには中国人に知り合いが複数名いて、その中の劇作家の 欧陽おうよう予倩よせん に依頼されて田中に会いに行ったのでした。そこでは芳翔風は芳子に会い、田中からは逆に芳子をモデルにした小説執筆を依頼されることとなります。

翔風は芳子の家に2ヶ月間留まり、芳子から話を聞き、田中からも機密情報を提供されて、それらを元にして『男装の麗人』を執筆、満州国建国後3ヶ月ほどした昭和7年の9月より「婦人公論」に連載します。同作には、清朝王女が“男装の麗人”となって積極的に華やかに日本軍に協力する様が描かれました。
昭和9年には舞台化され(水谷八重子)、芳子は「満洲のジャンヌ・ダルク」とも呼ばれ、ラジオに出演したり、歌をレコーディングしたりして、人気を博しました。

芳子らは満州国に清朝復興の夢を託しましたが、蓋を開けてみたら、満州国は日本の傀儡で、芳子はすでに昭和9年頃から関東軍(日本)に対して批判的態度を取るようになります。

彼女は日本の軍や警察の監視下に置かれました。日本軍による芳子抹殺計画まであったようです。
当時親交した 李香蘭(山口淑子よしこ )に芳子は次のように書き送っています。・・・僕のようになってはいけない。今の僕を見てみろ。利用されるだけされて、ゴミのように捨てられる人間がここにいる・・・

昭和20年、日本が敗戦し、満州国も滅亡、芳子は同年10月、中国国民党軍に逮捕されました。男装の麗人を書いた翔風の誇張やフィクションも含まれていましたが、それも証拠とされ、関東軍(日本)への協力者として芳子に死刑の判決がおります。
教誨師の本多まつ江(芳子逮捕時55歳)などが助命嘆願運動をしましたが、昭和23年3月25日(40歳)、銃殺刑に処されました。

家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず 
法あれども正しきを得ず 冤えん (無実の罪のこと)あれども誰にか訴えん(川島芳子辞世の詩)


私は日中戦争で叔父二人が戦死している。とてもむごい戦死であったと聞く。ですからこの当時の日中関係史はとても関心がある。

清朝再興という共通利害があった川島芳子と関東軍、しかし最後にはその理念の対立から関係は悪化したようだ。そして満州国は、日本と共にもろくも崩壊した。
同胞から突き付けられた民族への反逆罪。しかし、長い歴史の中で漢民族を中心として民族同士の戦いが中国史。何が反逆かは外部からは分からない。

満州族が作つた帝国、清王朝は漢民族を服従せしめた歴史であった。清王朝の崩壊は漢民族をして、満州族からの軛を脱した思いだったろう。
正義は勝者が作るもの。しかしながら、作られたイメージからの清王朝の姫君の銃殺刑は国民党政府の中でも論争があったことは明らかである。

そんなことから、川島芳子の銃殺刑には余談がある。彼女は生きていたというのだ。清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀兄弟の罪を許し生かした国である。その姫君を秘密裏に生かしたのは十分考えられるのだ。

これについては山口淑子、李香蘭も肯定した事実もあり朝日テレビ系で放送されたのには真実味があった。川島芳子銃殺執行の当日、突然公開から非公開にされたというのだ。実際銃殺されたのは身代わりだったそうだ。国民党政府は、共産党軍との内戦を控え日本人への配慮もあったかもしれない。
果たして真相はどうなのだろうか。

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