自己という問い
序
もしも今、自分のことを知ろうとすれば、即座にいろんなことを知ることが出来る。
しかし今日ほどに、自分を、なかんずく人間を何んなのか知るのが難しい時代はないといわれる。
それは人間がひどく疑わしい存在になったからである。
自然科学が発達し科学が全てを主導する時代になり、人間を機械的に抽象化し過ぎる時代の風潮が悪戯な細分化を招き本質をかえってわからないものにしてしまったのだ。
言い換えれば、生きた全体を具体的に把握するのではなく、細分化されたものは人間のリアリティに乏しく「疑わしく、希薄なもの」になったということなのだ。
近代の西欧的自然科学の歴史の駆動原理は、分析的かつ対照的である。前回投稿した「神、仏と自然」の中でも触れたように近代文明の効率主義はその対象を自然界から社会や人間までに拡大してきている。
この様に人間を含めた全自然界に効率知が増大するとともにそれの現実性はかえって遊離し「人間が疑わしく」なるとともに全存在が疑わしくなることとなった。要は実存とは何かがますます混迷してきたということなのだ。
では。東洋のそれはどうであろうか。東洋では同じテーゼである自己はという問いは、人間一般を問う事ではなく、分析的対照的に対することではない。
「自己とは」が一個の問いになるような実存的な問いでなければならないという。
道元はそれを端的に「仏道をならうというは、自己をならうというなり」という。
この事実は自己を対照的に問うことではなくこのひとつながりの言葉自体が問う自己と問われる自己の一体性を示すことに注目しなければならない。
道元は信仰の出発点を、キリスト教のようにあくまでも宇宙の創造主である神に求めるのではなく、それとは対照的に、「仏道をならうというは、自己をならうなり」と諭しています。つまり、宗教は超越者としての神の立場から出発するのではなく、現に様々な煩悩に縛られ苦しんでいる自分を見つめることから出発しなければならない、というのです。仏教的に表現すると、無始以来、迷いの世界に流転している自分に出会い、その姿に悲しむことから、宗教を求め始めるのです。
「仏道ぶつどうをならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法(ばんぽう)に証しょうせらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己たこの身心をして脱落せしむるなり。」と続く。
自己を忘れたあり方は、自己だけではなくあらゆる現実的なものの現実性をあらわにする。あらわになった現実性に自己がなるのだ。
この様にあらわになった自己の現実性とは何なのかを問うのが今回の全体的テーマとなります。
次回は「自己の普遍性」と続きます。