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江戸という日本国を支えた庶民 1

江戸時代の豪商で高田屋嘉兵衛という廻船を生業とする商人がいた。彼はどのような人だったのか意外と知る人は少ないだろう。

嘉兵衛は18世紀後半、淡路島の貧しい農家の子供に生まれた。

船乗りとなり、蝦夷との交易や北前船で一山当てるが、その後新しい航路を次々と開拓した。

活動範囲は現在ロシアに不法占拠されている国後、択捉島にまで及ぶ。小さな漁村だった函館も嘉兵衛が発展させた街だ。

彼は当時の名もない優秀な町人として大きな成功を手にした。嘉兵衛の資産は現在の相場で1兆円を超えたという。

鎖国政策により、中国、李氏朝鮮、オランダ以外とは接点がなかった日本。
しかし世界は日本の存在を忘れることがない。何故ならば、金銀の産出国、優秀な磁器の生産国であり中国製品とは比べても、とても優秀な生糸の生産国であったからである。

東アジアで多くの権益を手にしようと西欧の外国船はたびたび日本近海に出没し、そのたびに海を持つ藩は防備に追われます。しかしその海外事情は疎く外交権を持つ幕府でさえその対応に右往左往する始末であった。

そのような中、江戸時代後期には〈世界〉を見た日本人が幾人もあらわれました。
ここで紹介するのは、そんな3人の男たちです。

10年をかけてロシアから帰還した不屈の漂流民・大黒屋光太夫。

間宮海峡を発見した大冒険家・間宮林蔵。

一触即発の北方危機を乗り越えるのに絶大な役割を果たした高田屋嘉兵衛です。間宮林蔵を除く二人は商人です。

天明2年(1782年)、嵐のため江戸へ向かう一隻の回船が伊勢湾で二百十日の大嵐に遭遇します。

何隻もの船が沈没する中その船は生き残り、漂着したのはなんと現在の北方領土より北、アリューシャン列島でした。

乗組員は大黒屋光太夫を含めた17人の船員たち。
彼らは故郷・伊勢に帰還すべくロシアの首都・ペテルブルクをめざします。
光太夫たちを待っていたのは苦難の連続でした。

多くの仲間の死、応対するロシアの役人のたらい回し。
対トルコ戦争と対フランス革命で混雑を極めるロシアでした。果たして光太夫は帰国が叶うのか。

そんな中、協力者を得てついに光太夫はロシアの最高権力者・女帝エカテリーナ2世に謁見します。

エカテリーナ大帝は偉大な女王だったのでしょう。
国難の最中、

日本との交易は国益となりうる

と見抜き、今後の外交への手がかりになるようにと、大黒屋光太夫たちの帰国を認めたのです。

大黒屋光太夫はエカテリーナ大帝からメダルを賜り、特別船を仕立てられて日本へ帰還します。

ロシアに帰化した2人をのぞくと、最終的に生き残ったのは2人。
幕府とロシアの間で国交成立はなりませんでしたが、光太夫たちは10年の時をへて日本に帰ったのです。

大黒屋光太夫はその後小石川植物園で余生を送りました。

妻子をえて、ついには故郷・伊勢へ一時帰った記録もあります。

この時代またその後も帝政ロシアの皇帝、女王に謁見した日本人はいません。

当時日本の国際的立ち位置は弱く、どちらかといへば、なめ切られていたと言ったらいいだろう。そんな事情を知ればロシア帝国の最も繁栄した時の最高責任者エカテリーナが無名の日本人と謁見したことは、奇跡に近かった。

それほど大黒屋光太夫の人物なり識見が素晴らしかったのだろう。幕末日本にはこのような立派な平民が多くいたのだ。

大黒屋光太夫の日本帰還から12年。
日本がロシアと北方領土で局地戦まで行った事件があります。
大黒屋光太夫帰還の折に江戸幕府からあずかった証書を外交カードに、日露国交成立の交渉に来たロシア大使は、日本側の劣悪な態度に激怒。

我が国の北方沿岸を荒らし回ります。
あわや一触即発ともいえる国際的紛争となり日露は局地戦ですが戦争状態となるまで追いつめられていました。

伊能忠敬の弟子・間宮林蔵は元々は武士ではなくやはり百姓という庶民階層の出でした。彼には当時の多くの優秀な庶民がそうであったように、実力で勝負し武士にまで這い上がった男です。

ロシア船の大砲に腰を抜かす上官に「私だけは逃げなかったとあとで証言してください!」と言って戦地に踏みとどまっています。

またこの一触即発の事態の後、蝦夷地(北海道)や北方領土の重要性をようやく理解した幕府の命を受けて北方領土の大冒険へと出発します。

カラフトが半島でなく島であると間宮林蔵は発見しました。前人未到の領域を踏破して調査した結果、カラフトとシベリア大陸間には海峡があることを発見し「間宮海峡」と名付けました。国際地図には今もこの名前が生きています。

このロシアとの騒動での中で歴史的評価を受けたもう一人の日本人がいます。
蝦夷地を根拠地とする淡路島生まれの一商人・高田屋嘉兵衛です。

彼はこの騒動のさなか、ロシア側に船を沈められ捕虜として捕縛されてしまいました。

しかし高田屋嘉兵衛は「日露交渉の架け橋となり、全面戦争を回避する」べく、言語や風習などを手探りで学び、最終的にロシア側の責任者を動かし、一触即発の事態を避けることに成功しました。

武士階級でもない高田屋嘉兵衛は一商人である。そんな彼が全権大使となって国難を救ったという世界史的に見てもすさまじい活躍をしたのです。

彼のような庶民でありながらが幕末という江戸末期を明治維新へと導いた一人として評価されてもいいのでしょう。次回はその辺りの事情を書いてみるつもりである。

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https://note.com/rokurou0313/



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