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生命とは その3 

 その2で自然界に生きていかされている私たちの生や死の意味に不完全ながら触れた。
私たちの生や死の意味は人の理性の及ばない混とんの中にあり未だ解明されていない事実と表現したが、生科学的に見ればまた違った見解がある。

生命が死という消去を経て、生殖から新たな個体をつくる不連続で、非常に危ない橋を渡りながら、生命の連続性を保っている、そういうなかに我々の生命というものが生きているという例えを、焦土の中から発芽するパインツリーのマツボックリを介し紹介した。
そして人間を含めた生命体は、二度と同じ遺伝子の組成をもった個体には生まれてこないこと、私たちひとりひとりが唯一無二の個体ということも説明した。

従来の思考では、生から死を見つめなおすことが多かったのだろうが、そのような思考では明らかな前進は無いのかもしれない。むしろ死から生を見つめなおすのが、より論理的思考ではないのか。
死は芸術や哲学、宗教の最も根底にある命題です。

自然科学において、これまで死が表舞台に立つことはありませんでした。それは非論理的ドグマに陥りやすかったからです。
しかし近年それがクローズアップされるようになり、死から生を捉え直してゆこうとするなかで生命の本質がみえてきたのです。そこでは、新たな生命観・死生観が築かれ、社会的にも重要な役割を担ってゆく状況が散見されるようになった。

この宇宙空問という自然界の中で死というものがすべてのものに階層的に存在しています。
個としての一つの細胞、その全体としてのヒト、その細胞一つ一つに死があり、また個体としてのヒトにも死が備わっている。

反対に一つのことしてのヒトに対し、字宙を全体としても同じことがいえます。

核融合よる質量の増大化に向かう太陽に地球はあと50億年後には太陽に引き込前れ、飲み込まれます。
つまりすべてのものに時間と死が存在しているといえます。
すなわち、死によって個と全体に有時間性が与えられているのと同時に無時間性の永遠に戻るという自然界の大循環に帰るということです。そのような生命とか存在への大循環を回す駆動力が死といえるのでしょう。
生から死をみると、死はずっと向こうの霧のなかに包まれている存在かもしれません。しかし死という終焉の場から現在の自分を見つめ直すと、そこに新たに未来への入り方がみえてくるのではないでしょうか。

そして、そこからみえてくる生の意味とは、愛情と善い精神を次の世代に残すこと、それが生きる意味なのだろう。
(このような解釈の一部を、東京理科大学薬学部教授 田沼 靖一先生の講演の内容から一部を参考させていただきました。)宇宙自体が無からの誕生と有的世界の膨張、また無に向かう収縮を繰り返すように
その一部である生命は有から無、無から有を繰り返す流れのなかで、まったく偶然にいろんな生命が生まれて、ランダムにシャッフルされる遺伝子を持つオスとメスの出会いは、「遺伝子がロマンをもってこの空間を移り住んでゆく」と捉えるしかないと田沼 靖一先生は述べています。

二度と同じ個体ができない個別性と多様性のなかで、太陽系のなかで均衡を保っている生命はひとつの与えられた必然の死をもっています。そしてその死に向かって生病老死という劇を演じながら、この空間からまた無へと戻ってゆく。そういう"絶対の無"に戻ってゆくのが死ではないのでしょうか。

絶対の無とは、何にもない空虚という意味ではなく、老子,荘子がいうように無が存在 (者・生命) の原因であり有ではなく絶対無が存在の根拠であることをいう。

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