徳川家康その四
信玄亡き後勝頼が武田家の当主となった。武田信玄は存命中、信長が恐怖したただ一人の武将だったが、武田VS徳川と見れば武田は徳川とは常に交戦状態にあった。とはいえ実力では武田軍は圧倒的に優勢で、奥平氏ら奥三河の国衆は、武田方につくことで生き延びをはかっていたのだ。
徳川家康には織田信長という同盟者がいたが、京を押さえて勢力急伸中の信長は、決して対等な同盟相手とはいえなかった。家康の立場は、協力会社といいつつ実態は文句のいえない立場で現代風いえば、資金を銀行に握られた下請け会社のようなものだった。
早い話、武田軍という強敵に畏怖する信長の体よい防波堤であった。信長の清州同盟も信長に一方的に利用されていたのである。
幾度なく徳川領を蹂躙した武田信玄は三方ヶ原の戦争で完膚なき様に家康を打ちのめした。居城に戻った家康は城門に赤か赤と篝火をたき、大手門を開け放した。武田の追尾軍はその様子を訝り計略にはまるのを恐れ攻撃しないで全軍を迂回させた。家康の生涯ただ一度の負け戦に彼は恐怖におののき思わず脱糞してしまったという逸話まで残している。
彼はその戦を生涯の戒めとし絵を描かせている。それが冒頭の自画像である。これが有名な「顰(しかみ)像」で、家康は、生涯にわたって「顰(しかみ)像」を座右に置いていて戒めとしていた。
1572年(元亀3年)九月、武田軍は、三つの軍に分かれ、遠江国、三河国、美濃国へ同時に侵攻する「西上作戦」を開始します。武田軍の本隊だけでも総勢30,000の大軍勢が押し寄せ、野田城をはじめ、小山城、二俣城などを次々と攻略します。
徳川家康は必死に応戦しますが、武田信玄が率いる大軍を前に為す術がありません。頼みとする織田信長は周辺の敵と対峙しており、援軍は期待できまないのです。遠江国の北部を手中にした武田軍は、なおも進軍を続けます。絶体絶命ですが武田軍は突如兵を引き上げ甲府に帰還したのです。
武田軍団に異変が起こったのです。このことも家康が大きなつきを持っていたことになります。何か事をなすにはつきがいかに大事かが分かります。
三方ヶ原から家康は戦場を離脱し、わずかな供まわりをつれ浜松城に入ります。大きく門を開け放った様子に追撃軍山県昌景は攻撃せず引き上げとというのです。
もし自暴自棄となり山県隊と一戦を構えたら後の江戸時代はなかったのだ。恐怖心に打ち勝ち城内ではやる気持ちを我慢に変えた徳川に戦いの神は微笑み、恐怖心におびえた武田軍はこの勝利をつかみ損ねたことが武田滅亡への第一歩となってしまった。
天正三年五月に二十一日日(1575)長篠の戦いで多くの武将を無くし、弱体していた武田勝頼は、1581年、徳川の高天神城攻撃に後詰(援軍)することをせず、結果、武田家の威信を大きく下げることとなり、一門衆や重臣の造反が始まることになった。
そんな中、親戚筋の重臣穴山梅雪の勧めにより、信長家康の連合軍を迎え撃つため新府城(韮崎)を建設開始したものの、無敵を誇った武田騎馬隊を支えた甲州金の産出も低下して財政は破綻しかかった。
本拠地を甲府から移す反発の他、軍事を動かした甲州金や甲州銀の枯渇で軍資金不足となり、その負担を家臣や領民に課すことになった。武田勝頼VS一族・家臣・甲府領民とが決裂を始めたのだ。
1582年二月、妹の婿である木曽義昌が新府城築城のための負担増大への不満から離反し、武田勝頼が木曽討伐の軍を出すと、織田信長・徳川家康連合軍に北条軍も加わった25万の大軍が武田領に攻め込んだ。
戦国一の戦闘集団武田家滅亡のカウントダウンが始まったのだ。
家康自身の戦いと武田家滅亡に関しての態度は歴史上はっきりとしません。それは家康自身正妻築山御前とその子長男の信康が武田家に絡む騒動から殺害さざるを得なかったことが大いに関係したのだろう。
武田滅亡戦直後、武田に代わり甲府を治めた信長重臣の川尻秀隆を関東の北条氏と協力して追い出し、自分の領地とした。そして武田家遺臣を徳川軍に吸収します。
かねてから尊敬していた武田信玄が編成した武田軍法も、なんと徳川家の軍法にそのまま置き換えたのです。
さらに側室 下山殿に息子(家康五男)が生まれると、武田信玄の娘で隠居していた見性院という女性をわざわざ引っ張りだしてきて、五男の養母になってもらいました。
五男には武田七郎信吉と名乗らせました。その後も家康は見性院を非常に大切にし、彼女が家康を訪ねて拝謁に来ると、わざわざ上段から降りてきてその手を取ったと言います。 家康は関ヶ原で勝利すると信吉に常陸国水戸24万石を与えています。
もしかしたら三方ヶ原で大敗した自分を追い込まず兵を引いた武田信玄に言い知れず恩義を感じていたのかも知れません。
家康は無敵武田の騎馬軍団、赤備隊を皆殺しを命じる信長に秘して徳川軍に再編入させていた。
武田勝頼終焉の地は山好きの私が登った大菩薩嶺の稜線につながる大月富士百景の景勝地にある。景徳院の院号は勝頼自身のもの。勝頼、北条夫人、勝頼の長男の菩提を弔うため家康が建立した。武田家滅亡への先鋒を務めた家康がこのような立派な墓地と寺を建立したのは、勝者の敗者への労りだけだったとしても何か府が落ちない戦国史の知れれざる一コマなのだろう。
徳川四天王の一人井伊直孝は筆者の祖母の祖先にあたる女性が駿河で生んだ子である。彼は勇猛が売りの武田の赤備隊を率い大坂夏の陣で軍功を上げ大老となったのです。
時代は豊臣秀吉との葛藤、小牧長久手の攻防戦を経て秀吉への臣従、朝鮮出兵、関ヶ原の戦い、江戸幕府開闢と我慢忍耐の歴史が進みそして天下人として頂点に上り詰めます。
「人の一生は重き荷物を背負い遠き道を行くがごとし」の座右が語るような人生を過ごしていく家康。第一部はここで終了し第二部は時間をおいて書きつなぎたいと思います。
徳川家康 第二部その一へ
https://note.com/rokurou0313/n/nca9653a1d989/edit
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