子どもと一緒に絵本を読むということ
『よあけ』ユリー・シュルヴィッツ作・画 瀬田貞二訳 福音館書店
この絵本は、子どもの、ではなくて、私の気に入りだ。
詩的で静的な、この本は、中国(唐)の詩人である柳宗元の「漁翁」という作品をもとに、かかれたという。
この本を初めて子ども達に読み聞かせたときのこと。1歳か2歳位だった息子が、最後に出てくる、美しいページを開いたのと同時に、「はっ」と息を呑んだ。
特にストーリーもなく、大人の好みそうなこの本は、子どもには人気が無くて、これまで2回(その一回から数年してもう一回だけ)しか、彼らに読んだことはない。けれども、その忘れがたい瞬間を経て、この本は、私の、大切な一冊となった。
「うちの子は、動画の方が喜ぶから、わざわざ絵本を読み聞かせる意味があるのかわからない」と思っている方もいらっしゃるかもしれない。
絵本を子どもに読み聞かせる意味は沢山あると思うけれども、真っ先にあげたいのは、子どもの反応をダイレクトに感じられる、ということ。
息子の、息をのむ気配、微かな空気の動きを感じられたのは、静かなところで、肩を寄せ合って、一緒に同じ本を見ていたからだ。その呼吸や、体温を感じながら。
今、私が美しいと思ったのと、我が子が「あっ」と思ったのは同時に起こって、この「あっ」と思ったのは、きっと言葉になるより先にでた反応で、私たちは今同時に、この美しさに心を震わせたのだな。
一緒に、同じものを見て、一緒に、思わず、心を震わせた。
この瞬間を幸せと呼ばなかったら、子育ての幸せってどこにあるんだろう、と思うくらいだ。
そういう意味では、絵本を読むという行為は、まず、親にとって、子育てを存分に味わう、ということが一義にあるのかもしれない。
加えて良いこととして、目の前の子が、何を喜んで、何を楽しがって、何に笑ってしまって、何を好きで、何を好きではなくて、、、、という、親にとって大切な情報(という言葉は情緒的ではないけれども)をしいれることが出来る。
目の前の子は、どんな人だろう。何に心が動くのだろう。それを教えてくれるヒントの欠片を、子どもは、気前よく振りまきながら生きている。
それを掬いとることができた時、きっと、私たちの間には、伸びやかで、心が平らかで、静かな力がみなぎるような、そういう空気が流れるはずだ。
うまくいく時ばかりではないかもしれないけど、子どもとの時間の中で、ご褒美のように、そっと与えられる、それ。
魂が充填されるような瞬間。
子どものそれを掬いとるお手伝いは、画面の上に、自分(動画自身)だけのペースで流れる動画には、出来ないだろう。どんなに子どもが、動画を喜んでいる様に見えても。
だから、それらは、全く別の、行為なのだ。
もちろん、子どもを感じる方法は、それ以外にもあるのだろう。親は自分の好きなやり方で、存分に子どもを感じればいいと思う。どちらにしても、小さな機械が、人間の代わりに感じることはできない。
そしてそれは、子どもにとっては、「一緒に」の、大切な原体験のひとつになるのかもしれない。〇〇(読んで)してもらう、ことの、甘やかさとともに。