先祖調査を始めたきっかけとは?
突然ですが、皆さんは、自分の先祖を知って家系図を作成したいと思ったことはありますか?皆、誰しも赤ん坊として生まれ、3歳くらいから意識があり、その時には既に存在しています。意志で生まれてきた訳ではありませんので、自分とは何者なのか、気になることがあると思います。祖父母の家に帰省した時、自分のおじいさん、おばあさんは、、●●だった、とか聞いたことがあり、何となく気になった経験はあるのではないでしょうか。親戚と一同で集まる際、昔の話で盛り上がらないことは無いでしょう。当時は何を、自分から見てどんな親戚について話しているのか、全く分かりませんでした。先祖調査前に父方の祖父の名前すら知らなかった私が、心機一転して、高校3年時に先祖調査という稀有な趣味をなぜ始めたのか?話していきたいと思います。
出自について
平成14年、私は埼玉県にて誕生しました。両親は同じ中学なので、父方、母方の祖父母の家が近く、帰省という概念がありませんでした。
私が生まれたとき、父方祖父は既に亡くなっており(私が生まれる10年前)、父方の祖母も私が小学1年の時に亡くなりましたので、母方祖父母との思い出が深いです。
【父方】
父方には、一人、曾祖母が存命されていたようです。私が生まれる10年前に亡くなった祖父の母です。私が小学5年まで存命し、97歳まで長生きされました。しかし、私が会ったことがあるのは、生後0.5歳の、祖父の10回忌の法事の時。勿論記憶にありませんし、写真もありません。秋田に住んでいましたし、父親はあまり息子を祖母に見せようという意志が無く、私に存在を教えませんでした。亡くなる前に親族集まって会う機会はあったようですが、他の父の従兄弟(東京の人)は遠方にも関わらず、子供たちを沢山連れて行って秋田のひいおばあさんに会わせていたのに、父は私を置いていったことから、あまりそういう意識はなかったのだと思います。曾祖母が亡くなった際、父が誰かの葬式の為に秋田に行った(この時も、多くの曾孫が参列。私は呼ばれず)と聞かされ、後日、うちの神棚に見知らぬ高齢のおばあさんの写真があり、誰なのか、と聞いたところ、私の父方の曾祖母だと知ったのです。また、祖父母が早くに亡くなり、多くの親戚に会ったことはありませんでした。
【母方】
母方には、横浜に曾祖母(祖父の母)、埼玉に曾祖父母(祖母の両親)がおりました。私の母は彼らの初曾孫である私を真っ先に埼玉の祖父母へ曾孫誕生した、と報告の為に会わせ、二人はものすごい喜んだと聞いています。私の曾祖父は私が3歳の時に亡くなりましたが、うっすらと記憶がありますね。横浜の曾祖母も大変喜んでくれました。母は父に比べて、自分の親戚に会わせようという意識が強かったのだと思います。
先祖に興味をもったきっかけ
*一部、旧姓などを加筆しています。
① 父方祖父の母のお話
このひいおばあさんは、私が大学1年まで存命されていました。煙草を吸い続けて97歳は大往生でした。私は初曾孫なので、会いに行くとよくかわいがってくれ、私の名前も亡くなる二か月前まで覚えてくれていました。中学の頃、よく会いに行くと、義理の父の留五郎という人物について話していました。
留五郎じいさんは自身の持ち金を使って横浜のお菓子屋さんを復活させた、凄い人だったと。晩年は果物屋になった。
誰だ?留五郎って、、(笑)
曾祖母宅には、留五郎とエノ(妻)の写真が飾られており、祖父からお爺さん、御祖母さんだと教えてくれました。ただ、義理なのだと。なぜだろうか。この時から気になっていたのだと思います。
他にも直筆の家系図や実の両親の写真を見せてくれました。高祖父が私の大叔父にそっくりな顔立ちをしていたのを覚えています。
ちなみに、高祖父母は新潟県長岡市に本籍を置いており、空襲で2人の戸籍が焼失し、再製されなかったので、2人が生きていた証はこの写真のみとなっています。曾祖母が空襲前に横浜に持ってきていたから難を逃れました。
② 母方祖母の母の死
母方祖母の母が認知症になってしまい、私が中学を過ぎた辺りから話せる感じではなくなり、施設に入ったため、中学1年頃に祖母と会いに行きました。その時、私は祖母に、
『ひいおばあさんの旧姓は何て言うの?』
と聞きました。おばあさんは、
『大谷よ。この人の父は埼玉出身で、母は茨城の人で、明治生まれよ』
ということです。そこで、
『じゃあ、ひいおばあさんの祖父母は何時代の人なの?』
と聞いたら、祖母は、
『江戸時代になってしまうんじゃないかしら?』
との回答をしてくれました。元々、私は歴史が好きだったので、更に踏み込んだ話をしたのだと思います。その時は、特に先祖を知りたいとは思っていませんでしたが、何となく気になっていたのかもしれません。
大学共通テストが始まる少し前に曾祖母は96歳で老衰で亡くなり、葬儀で祖母から知らされたこと、それは
『私の母の父親は、母が2歳の時に大酒飲みで43歳で亡くしている』
という驚愕の事実でした。曾祖母を亡くしたことで、この人がいたから私がいる、そして父は大酒飲みでだらしないけど、一応、その父がいたから、血がつながっている、その名前を知りたいと思い、先祖を調べる為に行動を開始しました。ネットで検索すると、戸籍謄本を請求することで先祖を知ることが出来ると知ったので、請求し、ついにその名前を知ることができました。
本籍地を見ると、埼玉県北足立郡大谷口村◆◆◆番地、大谷仲次郎と書いてあり、大酒飲みで43歳で死亡した、曾祖母の父の名前を知ったのです。
祖母からお墓の場所を教えてもらい、お参りしたときは直系尊属の重大性を実感しました。
さて、仲次郎の両親はそこに埋葬されていないようでしたので、祖母に聞きましたが、分からないとのこと。そこで、古い本籍地の記載欄を見ると、
埼玉県北足立郡大宮宿、大谷玉之助 二男 分家スという欄がありました。この近くの菩提寺に埋葬されているかもしれないとのことで、現地調査で近くの菩提寺を1基1基丁寧に見ていくと、大宮駅から割と近くの菩提寺にその玉之助が眠る墓を見つけたのです。
驚きだったのが、大宮という土地です。大宮は塾ストリートですよね。高校時代、大学受験の為に嫌々通っていた大宮という地域がまさに、私のルーツの一つだったのです!地域を見る目が変わりましたね。祖母もまさか、そこが菩提寺だったなんて知らずに驚愕していました。
【先祖調査を通じて得られたメリット】
やはり、一番うれしいのは、話せる親戚が増える事ではないでしょうか。父方の祖父は既に亡くなっており、兄弟(私の大叔父、大叔母)に一切会ったことが無く、自分の苗字のルーツなんて知りませんでした。あまり会おうとしない父にお願いして、紹介をしてもらい、大叔父、大叔母と初めて対面し、苗字のルーツについて沢山取材できました。
最近になって秋田の本家に伺い、祖父の祖父母の肖像画を見せてくださりました。高祖父、雅治(明治5年生)、高祖母、ヒサ(明治11年生)
会ったことの無い祖父の父方の祖父母(私の苗字上の高祖父母)です。面長なところや鼻の形などが我が家の人に多く遺伝しています。
さらに、高祖母の両親、宇一郎(嘉永3年生まれ)、イエ(文久2年生まれ)
イエの父の利清(天保7年生)
利清の母、サトの写真(文化12年生)までありました。生まれは、1814年ですよ(笑)彼の父親は、山岳宗教を営む、修験道、寺子屋の教師でした。
祖父が居ないのによくここまで調べたな、と思います。
大叔父、大叔母なんて、特に会おうとしなければ会ったことがない人が殆どだと思いますので、親戚付き合いが増えて、一緒にお墓参り行こうと言ってくれるようになったのは、大変嬉しいことでした。大学1年時、秋田に行き、生後0.5歳の時にしか会ったことの無い、幻のひいおばあさんの墓前に手を合わせました。
その後、大学4年間で、富山、埼玉、長野、新潟、神奈川、茨城、山形、秋田に散らばる、5代の祖、16組(32人)のお墓を発見し、お参りまで全て済ませ、高祖父母の写真は13人分、見つけました。こういった経験から、多くの新しい土地、親戚との出会いがあり、色々と苦労はしたものの、本当に良い経験でした。
今後も暇があれば、Noteで新しい記事を作成しますので、ぜひ、ご覧くださいね。