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自分というものが存在している、と思える生き方を
プロフェッショナルという番組で田中みなみさんの密着取材が放送された。
私が、恐れ多ながらそこにタイトルをつけるなら
「恐れがモチベーションという生き方」だった。
番組の中の最後のセリフ
「使い捨てられてたまるか」
時代や顧客の興味は常に変化し続ける。そこに飽きられたら終わり。
求められなくなることの怖さ。求められない時がきたら、何物もない私になることの怖さ。
まさに、私はそこに執着して生きてきた気がする。
だからこそ、相手が何を求めているのか、今、私に何を期待されているのか?を感じ取り、分からなければ必死にその答えを探し、相手の望みに近づこうとする。
映像の中に、印象的な言葉があった。
「求められない時がきても何者かでいられるか。テレビのために、メディアのためにって、思っていたらどんどん自分の本当に本質みたいなものが失われていって、それこそ仕事を失ったときに何もない自分になって、私空っぽだなって感じちゃいそう」
2019年、私が17年全力を注いできた会社を退社したときは、まさにそうだった。空っぽになった。
ずっと、会社のために、仲間のためにと思って全力疾走し続け、それは悪いことではないし、それがあったからこそ自分の能力が磨かれたと思っている。
ただ、いつのまにか「誰かのために」は自分を失っていくことにもなっていたことに、自分を見失ってから気が付いた。
それこそ営業職をしていた時は自分のアイデンティティが確かにあった。それは、分かりやすい営業成績という「結果」に結びつき、ダイレクトにお客様から反応があり、分かりやすく会社の評価につながり、その結果とブランドから「憧れ」というステータスに繋がった。
そこから、結婚・出産を通し、育休をあけ職場復帰してからは、より「時間量」ではなく「能力」で勝負する世界に変わった。
営業部が大きく数字をあげている中で、私ができることは何か?「新規事業を新たに立ち上げ、それを軌道にのせ、会社の柱をつくり、そこに人材を送り込む」そんな新たなインパクトを残せないと、自分の存在価値がないと思い、常に何にもなれない自分に悔しさと焦りを感じながらもがいていた。
年齢と役職だけは、一丁前。私は、それに比例している成長ができているのだろうか?
それこそ、20年近く社会で走ってきて、何のプロになれているのだろうか?
ここ5年くらいはずっと、そのようなことでもがいてきた気がする。
田中みなみさんが言っていた。
「客寄せパンダでもいい。爪痕を残す、目立つとかそういうことではなく、使いどころを残せるか」
どこにプライドをはるかだなと思った。私は、もしかしたら「客寄せパンダになんかなりたくない」そんな表面的なところにプライドを張っていたところも、少なからずあっただろう。
自分がたどり着きたい未来は、そこをぐっとこらえ、トンネルをくぐりぬけ、ジャンプした先にあるはずなのに。
あともう一歩、ふんばれるか。
あともう一歩、自分を信じることが出来るか。
あともう一歩、未来をあきらめないか。
そこに分かれ道があるのだろう。
私は一度、空っぽを経験したから……。表向きにどのようにみせるかは別として、どの道を選択したとしても、自分を残す道を歩みたい。
改めてそう思った。
ある人にアドバイスをもらったことがある。
何も突出した能力がないと、自信をなくしかけていた私に対して
「スペシャリストでなくて、ゼネラリストもすごい能力なんだ。この人に頼んだら、やりきってくれるという信頼。それは、素晴らしい能力」
と。
自分を出すというのは、ある側面から見たらエゴにもなるし、相手を見過ぎて最後に置きにいってしまうと、素晴らしいものにはたどり着かない。
でも、最終的には自分を信頼してやり切る。僅かに心に浮かんだ違和感を確実に拾っていく。
その繰り返しが、自分というものを生きる、ということなのかなと感じた。
違和感は、いくらでもスルーできるし、開けたくない扉がいくつもある。
それを、開けるも私の生き方。
開けないも、私の生き方。
生きていくのには支障がないことにも手を伸ばしてわざわざ掴みにいって、そっと救いあげ、現実に落として、前に進む。
結局、周りの人にも自分に対しても、この繰り返しで「私」というものが出来上がっている。
自分でも、相当めんどくさい性格だなと思うときは多々あるけど、その生き方が、誰かの心に産みだせるものに繋がるということを信じて。