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日本人は根源的な善悪の概念に鈍感

[要旨]

経済評論家の加谷珪一さんによれば、日本人は根源的な善悪の概念に鈍感であり、集団の秩序維持という目的に従って、その場の空気や零囲気で善悪を判断するという特徴があるので、不正行為を行った日本の経営者の多くには、明確な意図がなく、その場の雰囲気でウソをついてしまった、株主の意向を無視してしまったということが多いということです。

[本文]

今回も、前回に引き続き、経済評論家の加谷珪一さんのご著書、「国民の底意地の悪さが、日本経済低迷の元凶」を読んで私が気づいたことについて述べたいと思います。前回は、精神科医である土居健郎さんは、著書、「『甘え』の構造」で、土居さん自身が米国留学中に、知人宅でアイスクリームを食べますかと聞かれ、本当は食ベたかったにもかかわらず、お腹はすいていないと答えてしまった経験から、日本人は自分に忖度して欲しいと他人に甘える習性があると述べてということについて説明しました。

これに続いて、加谷さんは、日本国民が、空気や雰囲気に左右されずに、根源的な理念や価値観に基づいて判断をしなければ、自由な経済活動の妨げになるということについて述べておられます。「資本主義社会・民主主義社会における、『個人や企業の行動は自由であるべきだ』という命題は、憲法や法律の上位に位置する根本的な価値観です。英米法でいえば自然法、あるいはそれから派生する自然権ということになりますから、政府がこれを制限する場合には、十分な議論を行い民主的な手続きを踏まなければなりません。

自由な経済活動を阻害する可能性のある法律は違憲であることはもちろん、自然権にも反する可能性がありますから、『法律にそう書いてあるから禁止』というのは民主国家においては危険な考え方と言えます。根本的な価値観に照らして、禁止すベきなのかを常に考える必要があるわけです。そして、自由な経済活動を保障するためには、どうしても越えなければならないカベがあります。

それは空気や雰囲気に左右されない根源的な理念や価値観について、すベての国民が共有することです。自由を保障するといっても、それは何をしてもよいという意味ではありません。ごく簡単に言えば、些末な議論以前の問題として、『やってよいこと』と『やってはいけないこと』の区別をしっかり付けるという話です。精神論的な話になりますが、健全な資本主義社会・民主主義社会を運営するにあたって、この概念は極めて重要だと筆者は考えます。

本書では、日本人は根源的な善悪の概念に鈍感であり、集団の秩序維持という目的に従って、その場の空気や零囲気で善悪を判断するという特徴があるとの指摘を行ってきました。根源的な理念や価値観を持たないと、何か間題に遭遇した時に、大局的な判断ができず、細かいマニュアルがないと行動できないという事態に陥ってしまいます。(日本において想定外という言葉が濫用されるのもこれが原因です)

世の中のあらゆる事象に対応できるマニュアルを作っていては日が暮れてしまいますし、それを参照することは現実的に不可能です。さらに言えば、大局的な判断ができないと、時にとんでもない間違いをすることもあり得ますから、社会的リスクを増大させます。ビジネスというのは違法かどうかが間題であって、善悪など関係ないという意見は、一見正しく思われますが、資本主義の世界ではその理屈は成立しません。

ビジネスにも根源的な善悪や倫理というものが存在しており、企業が株主の権利を侵害することや、投資家や顧客に正しい情報を開示しないことは、法律の条文以前の問題としてその責任を問われる行為です。どこの国にも犯罪者はいるものであり、諸外国でも株主の意向を無視したり、虚偽の情報を開示する経営者はたくさん存在します。しかし彼等の多くは意図的な犯罪者であり、ルールに違反していることを強く自覚した上で行為に及んでいます。本人に明確な意思が存在していますから、発覚した場合には厳しく処罰されることに十分な社会的合理性が存在します。

一方、不正行為を行った日本の経営者の多くには、こうした明確な意図がなく、その場の雰囲気でウソをついてしまった、株主の意向を無視してしまったということがほとんどです。中には、成果を上げなければという社内の雰囲気に押され、やむにやまれずに不正行為に至ったのであり自身に責任はないなと、意味不明の釈明をする人もいます。こうしたケースは海外ではあまり見当たらないのですが、一連の違いは、行為というものに対する根源的な価値観や善悪の有無が大きく関係していると筆者は考えます」(216ページ)

加谷さんは、「どこの国にも犯罪者はいるものであり、諸外国でも株主の意向を無視したり、虚偽の情報を開示する経営者はたくさん存在する」、「一方、不正行為を行った日本の経営者の多くには、こうした明確な意図がなく、その場の雰囲気でウソをついてしまった、株主の意向を無視してしまったということがほとんど」とご指摘しておられますが、私も同じことを感じていました。すなわち、一般的な不正は、不正を起こした人が、その人個人が得をするために悪意をもって行うことでしょう。

一方、日本の不正を行った経営者は、その人個人が得をするためではなく、「ムラ社会」となっている会社を利するために行っていることが多いと思います。(「ムラ社会を守る」場合であっても、そのことによって、その経営者自身も得をすると解釈することもできますが、経営者が直接得をする場合とは異なります)

例えば、2015年に発覚した東芝の不適切会計の例では、その第三者委員会の調査報告書で、「ODM(委託者のブランドで製品を設計・生産する事業)部品の押し込みによる見かけ上の利益の嵩上げは、まさに当期の実力以上にみかけ上の利益を『嵩上げ』するものである。にもかかわらず、このような行為が経営トップらの関与の下で実行され、継続されてきたことは、経営トップらの関与者において適切な会計処理を実施すべき意識、すなわちコンプライアンスが利益に優先するという意識が希薄であったと言わざるを得ない」と指摘されています。

すなわち、単に、社長が部下に不適切会計を指示しただけでなく、その指示が3代の社長にわたって引き継がれています。恐らく、外国ではこのような不正の引継ぎは行われないのではないでしょうか?これは、日本の会社がムラ社会であったから起きることであり、不正の引継ぎは、ムラ社会を守ろうとする意識から起こるのだと思います。そうでなければ、新社長が、前社長の不正を知った場合、その是正と責任追及を行うはずです。

したがって、日本の会社に対しては、単に不正を起こさない倫理観を持たなければならないというだけでなく、「日本人は根源的な善悪の概念に鈍感であり、集団の秩序維持という目的に従って、その場の空気や零囲気で善悪を判断するという特徴がある」ので、それを是正しなければならないと、加谷さんはご指摘しておられるのでしょう。

2025/2/10 No.2980

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