代案のない批判は認められるか
[要旨]
議論を行うときに、反対するには代案を出すべきという考え方と、意見を出すときに代案を出すことを条件にすることは避けるべきという考え方がありますが、意見を述べる際には責任をともなうという考え方から見れば、両者の考え方は一致します。
[本文]
アートディレクターの佐藤可士和さんが、ダイヤモンドオンラインに、「どんな立場の人でも『否定]するなら『代案』を出せ」という主旨の寄稿をしていました。「打ち合わせの空気を不穏にし、議論を前に進めることを妨げる『否定的な意見』も、善意で行動することを前提にしていけば、前向きな意見に変えていくことができます。それは、否定をするのであれば、代案を出すということ、なぜなら、打ち合わせの場は、みんなで作っていく場だからです」私も、佐藤さんの意見には賛成です。議論は建設的でなければならないし、そうするためには、代案のともなわない反対意見を排除しなければならないと思います。
一方で、アル株式会社CEOの古川健介さんは、講談社のWebPageに、「『批判をするなら代案を出せ』は面倒な人への対処ツールにすぎないので、ルールのように扱わないほうがいい」という主旨の寄稿をしています。確かに、古川さんの意見にも一理あると、私は思います。なぜなら、古川さんのご指摘のように、横車を押そうとする人は、「対案を出す」という条件を、反対意見を封じるために悪用する可能性があるからです。しかし、佐藤さんの意見も、古川さんの意見も、議論を建設的なものにしようという点では一致していると思います。
さらに、私は、「代案のない反対意見」であっても、「提案者の提案を実施しないことを提案する」に置き換えれば、代案を出していると解釈できると思います。そう考えれば、佐藤さんと古川さんの主張は一致すると思います。そして、私は、本当に批判されなければならないことは、「提案したり、反対したりはするけれど、そのことへの責任もとらない」ということだと思います。佐藤さんのいう、「批判するときには代案も出すべき」という真の意味は、「無責任な批判は避けなければならない」という意味だと思います。
また、古川さんのいう「意見を述べるときに代案を出すことをルールにしてはいけない」という真の意味も、「無責任な提案を否定されないようないようにするために、代案を出せということをルールにしてはいけない」ということだと思います。すなわち、議論を建設的なものにするためには、参加者の主張には責任という裏付けが前提になるということだと、私は考えています。端的に述べれば、当然のことですが、「自分の責任を逃れのための議論をすることは建設的にならない」ということでしょう。