【短編】わすれるくらいなら、ねてしまおうよ【小説】
目が覚めると私は、赤沼の底に沈んでいた。
その場所を、それ以外の方法で表現することは、今の私には出来なかった。ともかく、赤黒く濁った空間に、私は沈んで、身動きを取ることが出来なかったのだ。
「助けて」
私はその場所に沈んで漂っている確かな実感があったのだけれど、不思議なことに、声を出すことはできた。そこが液体で満たされているというのはあくまで感覚だけなのだと気づいた。
しかし、私はその場所を脱する方策もわからず、ただうろたえるばかりだった。
どうして自分がこのようなところにいなくてはならないのか、記憶を探るも、十七になったばかりの私が、赤沼に沈んでいるシチュエーションなど思いつくはずもなかった。
ただ一つ、思われるのは、ここが「夢」であるということだけだった。
夢であれば、この場所が現実の規則に沿った構造を取っている必然性はない。少なくとも、見せかけの合理性があれば、この場所が存在する根拠になりうるだろう。
だが、そこまで思考が至ろうとも、この世界から抜け出すには、覚醒が足りなかったようである。
「悪夢をみてるのかな」
思考がこぼれる。口に出したことばは、実に私らしい。
「ねえ、起きてよ。こんな夢じゃ気分悪いって」
そう呟いた途端、私はベッドの上に横たわっていた。
目覚めたみたいだった。日が薄っすらと差し込んでいて、スマホをみると、朝五時だという。
よかった。夢で。心からそう思った。いざ現実に戻ってみると、あの夢はじっとりとした嫌な感じがあった。もはや、目の覚めないような、どろどろとした、陰湿さがあの沼にはあった。
どうしてあんな夢を見なくちゃいけないんだろうと、苛ついた。汗もかいて、かなり目覚めが悪いのに、二度寝するような余裕もなく、若干の寝不足のまま、今日を過ごすことになるのだと思うと気分が悪かった。
しかし、目が覚めてからの私は、それなりに良い一日を過ごすことが出来た。はじめに心配した寝不足による集中切れはなく、学校の授業は一日を通してよく理解できた。
友達との話も楽しかったし、最近少し気になっている春馬くんと一緒に家に帰るなんてした。だいぶ珍しい絶好調な一日だったといっていい。
だから、私は心地よい一日の疲労感とともに、床についたのだった。
朝顔の露が濁っている
カプセル 怨念の叫びに包まれて
大きな空っぽの家
歪んだ教室
なくなったペット、あるいは愛した相手
ヴァニタスの骸
目が覚めると私は、赤沼の底に沈んでいた。
よりはっきり言うならば、そこは掴みどころのない浮遊空間であり、手足をどうばたつかせても、どこか地についた感覚がない、ただただ赤黒く、淀んでいるのだった。
「また?」
この空間の気味悪いところは、ただ空間にいるだけなのであって、悪夢というには嫌な感じが少ないところである。でも私はここにいると、なんだかものすごく寂しい感じがして、決して良い夢を見ているとは思わない。
「そもそも、二日連続でおんなじ夢を見るのって、どうかしちゃってるよね」
心当たりがないとはいえ、私の深層心理にはこのような夢を見なくてはならない歪んだなにかがあるのかもしれない。だとすれば、これをただの夢と片付けるにはいささか物騒な夢見である。
「どうにかして、この場所から抜け出せないかなあ」
手足をばたつかせても、やはり動いているという実感はない。だが、思い切って手を頭上に伸ばしてみると、なにかに指があたった感覚があった。
どのような形状をしているのかわからないけれど、その感覚で想像したのは、プールからあがるときの金属製のはしごだった。
私はそれを必死に掴んで、力の限り全身を浮上させた。
はしごによって赤沼から出た私の前には、月の上半身があった。
「え?」
一瞬でそれを月と識別できたのは、普段空に浮かんでいる小さな月のイメージが、そのまま何百倍にもなって目の前に現れているからであった。
もちろん、実際の月だとは思わなかった。だとすれば、この距離では月は遥かに巨大なはずであったからだ。
「おやおや、そんなとこにいたのかい」
月が喋った。口は見当たらなかったが、明らかに、私以外が声を発した。
「君に会いたいと思っていたのだけれど、如何せん見つからなかったもんでねえ。あとちょっと遅かったら、もう帰っていたよ。だとしたら、君は一生沈んだままだったな」
がはははと、おじさんのような笑い方をするもんだから、ますます訳がわからなくなって、か細い声で月らしきそれに尋ねた。
「え……と、あの、誰、ですか?」
「え? ああ、私はザ・ムーン。月並みに浮かんでいる月だよ、月」
「は、はあ」
まあそれは、見ればわかることだった。
「どうやら困惑しているようだけれど、安心してほしいのは、私は決して実在するようなものじゃないってことだ」
「実在しないんですか?」
「当たり前だろう。私はどこまでも夢の住人。現実で月が話しかけるなんてありえない。そんなことを言う奴がいたら、質の悪いフィクションと錯覚してるだろう、それは」
それを、ザ・ムーンそのものが述べていることに、私は首を傾げていた。
「夢の住人ってことは、ここは、私の夢?」
先ほどまでの快調な話しぶりが途端に止む。特にそれらしい表情もわからず静寂が訪れた(月を見ても何もわからない!)。
だがしばらくすると、月から音の震えが届いた。
「これは君の夢でもあり、我々の夢でもある。まあなんだ。君のような人間が、我々、高次存在とつながってしまっているような状況だと思ってもらえればいい」
随分と、SFチックな話だ。最初に思ったのはこんなことだった。
その次に、ザ・ムーンの言うことはきっと嘘ではないんだろうと思った。
如何に私が想像力豊かな人間だとしても、この世界を想像することは出来ないなと思っていたのだ。
「えっと、高次存在っていうのは、月とか、そういうものなんですか?」
「人を取り巻く意識あるもの全てだな。月はもちろん、星や雲、地球の自然でさえも、時々意識をもっている」
ザ・ムーンは誇らしげに語る。
「我々は、動物的に生存するというより、静物的に生きている。そこで動くから生きる動物と違い、そこにいるから生きるのが我々の構造原理といっていい」
なんだか小難しいことばかりを言っていて、私にはいまいちピンと来なかったためか、粗雑な返事をしてから、ふと気になることを聞いてみた。
「それで、どうして私はザ・ムーンと同じ夢にいるんですか?」
「ああ、その件についてだがね」
ザ・ムーンはまた少し沈黙を続けてから、こう切り出した。
「このように言うと、もしかしたら驚かせてしまうかも知れないのだがね」
「えっと、なんですか?」
「君は今、精神だけが世界を旅している状態なんだよ」
精神だけが旅をする――想像のつかない表現が、私を困惑させる。
「それって、どういう状態?」
「君の肉体は、君がここで目覚めたときよりもずっと前に活動することを放棄しようとしてしまっている。いわば、意識不明というところか」
信じられないことばが耳に飛び込んできたものだから、私は大きな声を上げて、そんなことがあるはずがないと拒絶した。
「とはいっても、現にそうなのだからな。それだから、君の精神は、人間の住まうところをうんと離れて我々の意識に飛び込んできたのだよ」
自分の頭(精神?)では整理のつかないようなことが、今、この空間で起きているらしい。そもそも私は、自分がいつ意識不明になったのかも分からない。だからなおさら、私は月が言っていることの意味がわからないでいた。
「我々としても、人間と意識を共有することなどなかったからな。生きる領域が違う以上、帰ってもらえるようにお願いしたいのだが、お主は、自分がどうやってここに来たのか分からんのだろう?」
「まあ、そうですね。昨日も、普通に学校に行って普通に寝たらここにいましたし」
「お主が見たであろうその世界は幻影、精神の中で見た世界だろう――お主の意識は遥か前から宇宙を漂っているのだから」
月の突然の宣告に、私は言葉を失った。それでは、私はいつ、いつから、夢にも似た世界を渡っていたのだろう?
「えっと――ちょっと整理が追いつかないんですけど。どうしたらここから出られるんですか?」
「まあ焦るんじゃない。私もどうしたらいいか考えあぐねているところだ。はじめに、お主が持っている記憶をできる限り明らかにせねばな。何もなく精神が肉体から飛び出るはずがないのだよ」
――私は月の指示に従って覚えている限りの出来事を月の前に告白した。しかし、思い出されるのは、日常そのもので――近所のクレープ屋さんでイチゴチョコクレープを食べたとか。映画館で友達とキャラメルポップコーンを食べたとか、他愛のない話ばかりだった。
「ふむ、聞いたところでは、人間らしい生活を送ってきたようだ」
月がときどき相槌を打ちながら私の話を聞いてくれた。
「そりゃ人間ですし。今はたまたま変なところにいるだけで、元は普通の女子ですよ?」
「ザ・ムーンには人間の諸事情など知る由もないが、言わんとすることは分からんでもない。私も月並みに浮かんでいる月であるからな」
きっと、月は私に同調してくれているのだろう。
「ならば、レッド・プールに顔を近づけてみるのはどうだ?」
「レッド・プール?」
「そうだ、お主があがってきたプールのことだ。あれは本来、人間が浸かるような液体ではなくて、精神の廃棄物にも似た空間なのだがね。しかし、そこにいたということは、何らかの意味があるかもしれん」
精神の廃棄物とかいう、聞き捨てならないことばはこの際、あまり突っ込まないことにして、私は、おずおずと赤沼の水面に顔を近づけようとした。
水面は、その赤黒さとは別に月の光によって揺らめいた波が美しくみえた。しかし、同時に、先程までは感じ得なかった、生臭さにも似た悪臭が立ち込めてきた。
きっと、私の本能が、赤沼から離れなければならないと警告しているのだろう。
だが、私は自分の体の反応にも屈することなく、水面に顔を寄せた。
水面は、私が捨て去ろうとした過去をありありと映し出していた。
そこには多量の錠剤を握りしめて、口に放っている様子が映されていた。
そうか、私が覚醒できなかったのは、私自身が覚醒を求めなかったからだったんだ。やけに冷静な態度で私は自分が意識を飛ばした理由を観察していた。
しかし、なぜ? ――赤沼の水面は、私が必死に忘れようとしていたすべての苦しみを、無情に映し出していた。表面に浮かぶ赤黒い波紋が、それらの過去の痛みをなぞり、目の前にある現実として蘇らせる。あの沼の色は、きっと私の中に深く沈んだトラウマが色をつけているからだろう。誰もいない家で感じた、取り残されたような冷たい空気。悪意に満ちた教室で、見えない壁に囲まれたような疎外感。そこに広がる孤独は、言葉にならないほどの重さで私を締めつけてきた。
この沼が私の記憶の断片を映し出すたびに、深い場所から呼び起こされる、終わりのない感覚がある。忘れようとしても、ただひたすらに重くのしかかる痛み。どうしようもない、あの頃の記憶が、私を縛り続ける。
「だが、だからといって、このようにすることはなかろう。忘れるくらいなら、寝てしまおうとは、言うでないぞ」
声が響く。それはどこからか、私の内側からなのか。私がどこかで聞き覚えのある言葉を拾い、まるで他人のもののように思い出す。心の中でその声が繰り返すたび、私は何かを思い出しそうになるが、それが何かは分からない。ただ、目の前に浮かぶその影が、すこしだけ私を冷静にさせるような気がした。
気づけば、私はいつものベッドに横たわっていた。窓の外から指す月の光がぼんやりと柔らかな笑みを浮かべている。どこか、これまでの夢の中の感覚と重なる部分があるようで、それがまた不安を呼び覚ます。あの夢――あれが現実だったのか、それともただの幻だったのか、私にはもう分からない。ただひとつ、確かなのは、今ここにいる私が「夢を見ていない」ということだけだった。
あの夢の中で、私は何を見ていたのだろう。私は、あの夢のどこで目を覚ましたのだろう。何が本当で、何が幻だったのか、その線引きが、今の私にはもう曖昧に感じられる。
薬を飲んだことなどはなかったことになっていた。そもそも、あれが現実だったのか、夢だったのか、それさえも区別がつかない。休日のほとんどを寝て過ごしていたようだが、それもただの事実でしかない。
記憶の中で、私はどれほど遠くまで行ったのだろう――宇宙の果てまで、意識が旅していったような感覚が、未だに残っている。その経験が、今の私にどんな力を与えてくれるのかは分からないけれど、確かに何かが変わったような気がする。
そして、私は思う。
ザ・ムーン。 あの月が、私にとって大切な存在だったのかも知れないと。
無意識の中で、何度も目を向けていたその輝きは、もしかしたら私の道しるべだったのだろうか。
かくの如く、月は昔の詩人の恋人だった。
――萩原朔太郎
月の光が、どこかで私を照らし続けている気がする。それが本当かどうかは分からないけれど。
炉紀谷游