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【短編小説3/100】 サニーサイドアップ

「たまごがない」
朝めざめて冷蔵庫を開け、ドアポケットに入っているたまごを使おうとしたとき、4個入っていたはずの1つが消えていたことに気づいた。
それから麦茶のポットが空になってシンクに置きっぱなしになっていることにも。
私は、つかつかと歩き、テレビの前でくつろいでいる彼に言う。
「ねえ、麦茶がなくなったら作っておいてって言ったじゃん」
私は空のポットを左右に振りながら、彼を見下ろす形になった。彼はテレビから首を横にそらすと、ぼんやりとした表情で私を見つめた。「ああ、ごめん」

 簡単に謝られてしまうと、どうやって返せば良いかわからない。怒りの感情はとたんに行き場をなくし、宙をさまよう。テレビは、芸能人のゴシップを流している。リビングで飼っているいんこのぴーちゃんがカゴの中で羽音を立てる。全く興味もないだろうにも関わらず、画面をぼうっとみ続ける姿に私はまたイライラとしてしまう。

「たまご使った?」それはオレンジ色の殻をした滋養卵で、私のわずかなバイト代で奮発して買った4つ入りのたまごだった。
「うん。昨日の夜、目玉焼きにして食べた。千代ちゃんの分も作ってあげれば良かったな」と言ったけれど、彼が口先だけでそう言ったことも知っている。
だいたい、私と彼では目玉焼きの焼き加減の好みが違う。
彼が好きなのは半熟の目玉焼き。私は固めの目玉焼き。しっかり焼けていないのは許せない。

 4年前、同棲して初めて彼に目玉焼きを作ったとき、彼はもっと柔らかいのが好みだと聞いた。今度千代ちゃんにも作ってあげるよ、と言ってもなかなか作り出さなかったので、無理やり作らせたら、見事に半熟のサニーサイドアップを目の前に差し出してきた。「ほら、食べてみて」「とろとろじゃない、これ」それがいいんだよ、と嬉しそうに彼は言った。
箸で崩すと、どろどろとした卵液が流れ出して、皿いっぱいに広がっていった。

 「千代ちゃん今夜もバイト?」テレビからぼんやりと顔をあげた彼がたずねてきた。「ああ、うん。バイト昨日で辞めた」彼は少し目を丸くしたが「そう。じゃあ今夜は家にいるんだね」と言った。まだ夏の朝なのに、何も始まっていなのに、私たちは夜の話をしている。
  
 私は、彼の前に麦茶のピッチャーを持ったまま立ち尽くしたままでいる。
なんでもっと聞いてくれないの?なんで辞めたの?次はどうするの?とか。
29歳になって、定職についていなくて、アパートの家賃が支払えるか不安で、そして、私と結婚する気があるのかどうか分からない33歳の男と4年住んでいる。

 いろんな混乱と不安が、半熟の卵焼きから滲み出た卵液のようにどんどん溢れ出てきて私を浸食してくる。せめてせき止めるものがあったら良いのに。
少しでも安心できるものが欲しいのに、穏やかでいたいのに、私はいつも怒っている。

「でもさ、パワハラっていうの?店長がさ、20歳の男の子つかまえて、バックヤードで説教するの。そんなの今時ないでしょ。お客様ファーストだからって、ばかみたい。客なんてどうせ酔っ払いばっかりなんだから、適当にあしらっておけば良いのにね」
 私は、きっと聞いてもいない彼の背中に向かって、昨日で辞めたバイト先の悪口を並べてみる。深夜は割り増し料金があるからと選んだ駅前の居酒屋は、酔っ払いの巣窟で、私はうんざりしていた。バイト先の店長にも、自分にも。でも可愛がっている子も私にはいた。
 「みりちゃんって可愛い女の子がいたって言ったでしょ。実は昨年、まだ17歳だったんだって。17歳って言ったら雇ってもらえないと思って18歳って言ったらしい。ちゃんと身分証確認すればわかるのにね、店長アホだね。こないだね、ミリちゃんのお誕生日会を店でしたの。18歳、いいよね。青春って感じ」
「うん」彼は相変わらず画面を見ている。

 私は、テレビの画面を消したい衝動と、彼を殴りたい衝動にかられ、どうして良いか分からないから、透明のピッチャーをぶんぶんと振り回す。
上から見下ろすと、彼の肩が随分と小さく見える。昔はもっと大きく見えたはずだった。彼と初めて出会った時は、私はまだ20代前半だった。ずるずると引き返せない関係を続けてここまで来てしまった。私が今、よくない状況にいることは自分が一番わかっている。でも手放すのが怖いことも。

テレビの画面から目を離して、彼が言った。
「そういえば、映画みたよ。千代ちゃんの出てるやつ、観にいった。すごいな〜千代ちゃんは」
私は俳優をやっている。聞こえはいいけれど、ほとんど売れていない。はじめて出た映画は、映画館で上映されたけれど、ほとんどセリフのない服屋の店員の役だった。エキストラなのか俳優なのか分からない。この先、自分が売れる見込みもなさそうだった。
 
 なし崩しに続けてきたものを、大事でないものから手放していった時、最初に整理したのは居酒屋のアルバイトだった。けれども、辞めたから安泰ではない。私はまた次を探さなければならない。俳優の仕事だけでは食べていけない。
アルバイト歴は多すぎて、履歴書1枚では、もう書ききれないくらい埋まってしまった。これでまた一つ私のしょうもない過去が積み重ねられていく。

「大学時代の後輩だったえみちゃん、結婚したんだって」
「そう、良かったね」
「バイト先の藤井さん、お子さんが生まれるから来月から社員になるんだって」
「へえ、めでたいな」
「ねえ、私たち別れた方がいいと思うの」

   彼は私に向き直り、私の方をじっと見た。
「どうして?」
「どうしてもよ」私は静かに言った。
画面越しでは、タレントの甲高い声が聞こえ、窓の外は車が走り去る音が聞こえる。音はするのに、世界が急に静かになった。
頭から考えが小さな光のつぶとなって、一つ一つ胸に落ちていくような不思議な感覚に陥った。小さな光のつぶがとめどなく溢れ出てくる。

 私の決断が、誰かの心にさざ波を立てることがある。でもその揺らぎに、私まで流されてはいけない。前に進むためには、大事ものを残し、いくつかのものを手放ささなければならない。

家は。出てく。仕事は。いったん実家に帰る。そう。
今度は私が彼に質問されている。質問も答えも予め用意されたような、淡々とした会話が続く。
突然、思い出しように、声のトーンを上げた。

「ねえ、ぴーちゃんは?」
「あっ!」
 頭から流れ出る光のつぶの洪水がようやく止まった。
私たちは、せきせいインコを買っていた。同棲して3ヶ月目の記念に、二人で飼いたいねと言って、ペットショップを何軒もはしごして、何度も何度も話し合って決めたのだ。ずっと大切にしようと。ぴーちゃんは二人で決めた名前だった。

 鳥かごを見ると、ぴーちゃんは黄色の羽にくちばしをうずめて毛繕いをしていた。私たちがじっと見ている視線を感じたのか、こちらを見ると不思議そうに首を曲げた。
薄いぴんく色のくちばしが綺麗だった。

 私は鳥かごのそばに行くと、扉を開けた。ぴーちゃんは、伸ばした私の手に乗った。それからつつつと歩いて私の腕にあがって肩に乗った。ぴーちゃんの4本の足の指がギュッと私の肩をつかんでいる感触がある。

「ぴーちゃんは、千代ちゃんに懐いてるな」
そりゃそうだ。私は毎日お水を換えて、餌をやり、鳥かごを綺麗にし。
ぴーちゃんの前でおしゃべりをしたり歌を歌ったりしていた。
たまにぴーちゃんが、おはよう、などと言葉をしゃべるのは、私が話しかけていたせいだと思う。
「うん。ぴーちゃんは私が実家で大事に育てるね」

「たまに会いに行ってもいい?ぴーちゃんに」  
 私はまだ彼のことが好きなのかもしれない、と思う。終わらせたくないのかもしれない。言葉を大きく飲み込んだ。
「ぴーちゃんに会いに、うちの実家まで?」
「うん、いいよ」
私の実家は福島だ。ここから何千キロも離れている。
私は不確かな未来に約束をした。

彼が立ち上がった。
「麦茶つくるよ」私の手からピッチャーを奪うと、台所へ向かう。

「千代ちゃん、朝ごはん食べてなかったでしょ。作るよ。目玉焼き作ろうか」
「ありがとう。固めでお願いね」
「わかってる」
彼は冷蔵庫から2個のオレンジ色の卵を取り出した。

固めじゃなくても今日はいいか、と思う。半熟でも、崩れて黄身がしみだしたとしても。食べた後はお腹に入って一緒だ。どんな形でも私はただ、食べるその時を味わうのだ。

彼が台所に立ってフライパンを握る。その姿はなぜか今度は少し大きく見えた。私の肩にずっと乗っていたぴーちゃんが
「おはよう」と言った。

⭐️短編小説を100個作ることチャレンジしています。
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ロイ未来


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