【短編小説】よしの桜
銭湯に行こうと思ったのは、試合に負けたからだ。今日も勝てなかった。
まあでも試合に出れただけ、良かったと思えばいいのだろうか。
高校に入学してもうすぐ1年経つ。未だに勝てた試合が一回もなかった。
右肩にやけに食い込むように重さを感じるのは剣道の道具だった。
大きなソメイヨシノの木。それが銭湯「よしの湯」のめじるしだ。
満開を迎え、店先からこぼれる光に照らされた桜の木は、夜風に吹かれ、わずかな花びらを散らしていた。
僕は、防具を抱えたまま銭湯の暖簾をくぐった。
「おかえり、悟(サトル)」
入ってきた僕を見るなり爺ちゃんが声をかけた。最近、老眼が進んできたから新しくメガネを新調したと言っていた。
番頭の爺ちゃんは親戚でも何でもないが、ここは僕が両親に連れられ幼い頃から通っている銭湯だった。
「これ、預かっておいてくんない?」僕は番台の横に放り投げるように防具を置いた。どさっと音がする。
「今日もやってきたのか」
「試合だった。負けたけどね」
僕がそういうと爺ちゃんはメガネを下げて言った。
「勝てばいいってもんじゃないぞ、試合は」
僕はうんざりするように、小銭を渡した。説教なら顧問の先生から十分受けた。気合いが足りない、勝つ意欲が足りない、間合いを見る力が足りない。
まあどっちにしろ、僕は足りないものばかりだ。
「辞めようかな、部活」
いろんな雑念を振り切るように、脱衣所で服を脱いだ。
自分の体を触る。細い体に薄い皮膚。僕は食べても食べてもあまり太れない体質だった。まあ、これじゃ勝てる見込みのない体なのかもしれない。
脱衣所のロッカーは3列になっていて、高さが低く隣の列を見ることができた。隣の列からマゲをゆった男の頭が見えた。相撲の力士だろうか?
マゲの頭はついついと動き、やがて僕の着替えている場所に辿り着く。
思わず僕はまだ服を着た男を見て息を呑んだ。
彼は侍だった。
侍は僕を見ると、一礼をし言った。
「失礼しました。初めてきたもので、刀はどちらで預ければいいのでしょうか?」
よく見ると、男が着ている小袖の左脇腹には抜き差しがあった。
レプリカなのか?コスプレか?
とりあえず、悟は番頭のほうを指差した。
「あそこの番台で預かってくれるよ。僕の竹刀も預かってもらったんだ。」
男は頭を下げた。綺麗なマゲだった。
風呂場は、昔ながらの銭湯だ。立派な富士の絵は腕のいい塗装屋に描かせたと爺ちゃんが豪語していた。
鏡がある洗い場に座り、僕は頭から湯をかける。
日中の試合で流した汗が吹き飛んでいった。
「兄さん、お背中流しましょう」
声をかけきてのは、先ほどの侍だった。
鏡越しに男の姿が映る。
濡れた髪が肩にかかり中年と思ったが、よく見るとまだ年若かった。
僕は、訳がわからないまま、うわずった声で返事をした。
「はい」
「兄さんよくくるんですか?この風呂屋は」
「ええまあ、あなたはどうなんですか?さっきと初めてと言っていましたが」
「あっしはまあ、近くの風呂屋が火事になったもんでね。ほら例の遊郭の火事。隣の風呂屋も燃え移っちまってね。まあ再生まで時間がかかるかもしれねえ」
パシャリと、背中にお湯がかかる。そして声を潜めて男は言った。
「でもあのまま女たちは逃げられたもんだから、良かったですな」
男はそういうとサッと風呂に入ってしまった。
他にも客はいたが、皆男に気を止める様子はなかった。
一度落ち着かせ、僕も風呂に入る。火事、遊郭、もしやタイムスリップでもしてしまったのだろうか。ぼんやり考え込んでいるとのぼせそうになる。
気づけば風呂には誰もいなくなっていた。
少しだけ風呂の中で眠りこけそうになっていたときだった。
僕の頭にお湯をかけたものがあった。
見上げると、女の顔だった。
「ねえ、兄さん。ちょっと髪を洗ってくれない?」女は長い髪を滴らせていた。
「ここは混浴じゃないはずです」といいそうになって、確か江戸は混浴もあったと聞いた。
女は豊満な身体をゆったり揺らし、鏡の前に座った。そして湯の中にいる僕に向かって手招きをする。
「少しの時間でいいよ」
僕は流されるように女の後ろに立っていた。
「よく洗ってね」女は言った。僕は言われるままに丁寧に女のかみを手でほぐし、シャンプーをつけた。シャンプーはいつもの銭湯のシャンプーで、泡だったたものを耳のそばつけたとき女はむずがったように笑った。
途端に何故か嬉しくなり、丁寧に女の髪を洗った。
僕は不思議な感覚になっていた。湯の熱気と女の身体を洗いながら、思わず背中から女の胸に手を伸ばしたい衝動に駆られた。少しだけ指先を伸ばそうとした瞬間、女がすっとたちがった。
「悪いけど、もう客はとってないんだ。」
「気持ち良かったよ、兄さん」女はそういうと、手で髪の水気を絞り、去って言った。
僕はもう一度身体を洗った、頭から耳の穴からつま先まで、現か夢がわからない感覚を身体で確かめたかった。
風呂から出て、体を拭いていると、さっきの侍が出てきた。
「兄さん2階へ。雪乃が待ってる」
あの女は雪乃というのだろうか。
連れらて、2階の階段へ登ると、そこは多くの男たちでごった返していた。たいていは、皆博打をやっている。
僕は雪乃の隣、侍と2人で雪乃を挟む形で座った。
雪乃は畳の上で寝転んでいた。
「兄さん、良い腕してるね」雪乃は言ったが、僕の何をみてそう言ったのか分からなかった。侍は、雪乃の隣で、団扇で風を送ってあげていた。
その時だった、1階から
「ごめんよ」と叫び、ものものしい音が聞こえた。
雪乃がさっと起きる。顔を見ると口元を引き結んでいた。
「あいつに連れ戻される」雪乃は怯えていた。
侍は頷くと、僕に言った。
「兄さん、刀をとりにいくぞ」
「刀?刀は持っていない、僕のは竹刀だ」
第一、争いに使う道具でもない。
けれども侍は僕の腕を引っ張ると思いっきり階段を駆け降りた。
風を切る。これが夢なら、もし覚めて欲しい。
そう思ったけれど、気づいた時には
侍に竹刀を渡されていた。
入り口には強面の男が4人立っている。
一番先頭に立った中年の男が手にもった提灯をかがげ僕に聞いた。
「すみません、雪乃という女をみませんでしたか?」
僕が首を振った瞬間。
男の背後にいた3人男が鞘からけんを抜いた。
侍も剣をぬく。きちんと手入れがされているであろう刃が綺麗に光っている。
そこからは、もはや何わからない。僕は竹刀を持って振りまわしていた。
侍が叫ぶ
「間合いを見るんだ」
僕は落ち着かせ竹刀で距離をとった。
一番手前にいた男が告げる。
「2階へ上がらせもらうよ」
ちらりと見たら番頭の爺ちゃんは両手を組まれていた。
眼鏡が転がり壊れ、気を失っているようだった。
僕は何かのスイッチが入ったように、男に竹刀を振りかざしていた。侍が後ろに回って援助する。男が鞘から剣を抜き、振りかざした瞬間。
見えた!ゆっくりと男の刀がまるでスローモーションのように見えた。
僕は思いっきり竹刀で男の剣をとばした。
あとは早かった。
あっという間に侍が4人の男を倒していた。
倒れる男たちをみて呆気に取られる僕に侍は言った。
「何、気絶してるだけだ。大丈夫だ。それにしても兄さんやりますね」
僕がよくわからないけれど、一生分の勇気を果たしたようにヘナヘナと座り込んでしまった。
雪乃が階段から降りてきた。
「兄さん、ありがと」雪乃は言って、僕を立ち上がらせると、ズボンのポケットに何かを入れた。
侍が爺ちゃんの縄を解く。
僕は爺ちゃんを起こそうと思ったが、眠ったままだった。
「大丈夫です、あとは任せてください」
僕は侍と雪乃にお辞儀をすると外に出た。
外はいつも通りの銭湯だった。
歩きながら振り返る。あかりはまだ灯っていた。
次の日、朝になってもう一度銭湯を訪れた。
爺ちゃんは店を閉めるとこだった。
「昨日爺ちゃん、大丈夫だった?」爺ちゃんは眼鏡をかけたまま不思議そうな顔をしていた。
僕は銭湯の中をのぞく。いつもと変わらない銭湯の様子だった。
昨日家に帰って着替えもせずに眠ってしまったままだった、ズボンのポケットをさわる。
手のひらから出てきたのは桜の花びらだった。
「そう、悟、昨日防具を忘れていったな。大事にしないとな」
爺ちゃんが言った。
僕は丁寧に防具を持ち上げ肩にかけた。
なんだかいつもより軽く感じた。
外に出るとソメイヨシの木から、こぼれるように桜の花びらが舞っていた。
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