市民文庫書評『心的外傷と回復』ジュディス・L・ハーマン著 中井久夫訳
〇「ボランティア情報」(とちぎボランティアネットワーク編)「市民文庫」
『心的外傷と回復』<増補版>
ジュディス・L・ハーマン著 中井久夫訳 みすず書房 定価6800円+税
評者 白崎一裕 那須里山舎
本書は、PTSD(外傷後ストレス障害)Posttraumatic stress disorder の理論と治療に関する古典的名著である。しかし、読者は、PTSDの心理療法の学術書であると勘違いしてはならない。20世紀最大の批評家ともいえるヴァルター・ベンヤミンの『暴力批判論』を継ぎ、その思想的地平を超える視点を有した「暴力批判」のための実践的思想書なのである。
PTSDという言葉は、阪神・淡路大震災以来、頻繁にマスコミ報道に登場し東日本大震災の3・11以後は、ほぼ日常語というレベルになっている。ただ、言葉が日常化してもその背景にある問題を人々が深く認識しているかどうかは別のことだ。
近代国家は、個人個人の暴力性を、社会契約によりつくられた国家に委託して法の下に一元的に管理するようになった。その結果生まれてきたのが、警察やシビリアンコントロール化にある軍隊などである。これらの暴力装置の運用については、現在でも様々な課題があるが、一応、法の支配の下で市民のセキュリティのために運用されるシステムになってきた。しかし、我々は、上記の近代国家における暴力装置において暴力を克服したといえるだろうか?とんでもない!と読者は思うだろう。世界規模でおきる内戦・民族対立や、いまや純粋な天災とはよべない人類の社会活動のからむ疑似天災(風水害・地震等)にはじまり、本書で中心課題となっている性暴力や家庭内暴力に至るまで、複雑化・潜在化する暴力の連鎖がいたるとろに現象している。この暴力の犠牲者がPTSDにさらされる。そのサバイバー(生存者)たちは、どのように生きていけば良いのか?ハーマンは「心的外傷を研究することは、自然界における人間の脆さはかなさを目をそむけずに見つめることであると同時に、人間の本性の中にある、悪をやってのける力と対決することである。」と言っている。冒頭に本書を心理療法の学術本ではないと断言した根拠がここにある。本書は抑圧された者たちが闘うための作品として生まれてきたのだ。19世紀以来三度の政治的・社会的運動がPTSD調査を活発にしてきた。一つ目は、19世紀後半のフランスカトリック教会の教育・医療の支配に反対する共和派の中から女性の心的障害(ヒステリー)研究として、二つ目は、第一次大戦からベトナム戦争にいたるまでの戦争神経症研究などから、そして第三に、1960年代後半からのフェミニスト運動における性的暴力と家庭内暴力の告発である。これら反権威・反戦・反性差別の歴史的遺産を統合し一つにして現在のPTSDについての基本理解が形成されてきたのだ。
暴力批判は「公的世界と私的世界、個人と社会、男と女等のつながりを取り戻すこと」のなかから生まれてくると本書は言う。「レイプ後生存者、戦闘参加帰還兵、被殴打女性、政治犯、政治的強制収容所生存者、家庭支配の暴君から逃れた生存者」(本書序文より)そして暴力を無化しようとする全ての人々への生きた言葉と方法がここにはある。