【過去記事】みんなで進む、言葉で伝える、「場」で学ぶ。
1. わらじ荘劇場『鍋を囲みながら』
2022年3月13日、わらじ荘で演劇『鍋を囲みながら』が公演された。これは、わらじ荘に住む荘民とわらじ荘に関係する多くの人が関わり、時間と熱を注げて完成させた演劇である。私はこの演劇を通して多くのことを学んだ。
2. 5年後の荘民役やらない?
1月中旬に初めてわらじ荘に行ってから、少しずつ顔を出す機会が増えていった。2月上旬の練習のときに、「5年後の荘民役で出てもらうことを考えてるんだよね」と自然な感じで言われた。テーマ曲『動いた先に』がとてもいい曲で、メインキャストの方々も真剣に取り組んでいたが、私はまだ自分が演劇に出ることに対して前向きにいれずにいた。練習では、一緒にテーマ曲を歌ったり、演劇のゲームをしたり、練習に参加できないキャストの代役を務めたりすることもあった。歌も演技も周りの人より下手で、ネガティブな気持ちになったときもあった。
しかし、荘民のみんなといるのが心地よくて、自分の居場所を見つけたように感じていたから、その後も演劇の練習があるたびに顔は出していた。
3. 正直つまらなかった
2月の下旬にさしかかる頃、音響の役割をオファーされた。もうひと巻き、巻き込まれた。2月25日に私の家で使用する音源の選定会が行われ、3月1日の全体練習で音源を見直したほうがいいということになり、3月5日にさっちゃんと4時間のzoomミーティングを経て、音源が決定した。しかし、言われた通りに音楽を流すだけの音響の仕事は、自分にとってつまらなかった。
4. まさかの3日間
◯本番まであと3日
この日は暗幕を張った。同じ5年後の荘民役を演じる二人と、受付と照明やライブ配信の手伝いをしてくれる子と一緒に張った。今まで、あまり話したことがなく、そっけないと思われていたらしいが、この共同作業を通して距離が縮まり、その後の演技もやりやすくなった。暗幕が長すぎて、真ん中を通れないと考えていた時に、谷折りを作って、通れるようにするアイデアは我ながら秀逸だったと思う。夜は、YouTubeライブのリンクを生成したり、ライブ配信の準備に勤しんだ。
◯本番まであと2日
この日は朝から、通し練習。本番が近づいてきて、緊張感が生まれていた。お昼はみんなでラーメンを食べた。美味しかった。午後。東日本大震災の黙祷以外の時間は、会場設営にあて、特に駐車場の雪かきを頑張った。男女関係なく、ただひたすらに雪を砕き、運んでいた。ツルハシを振るう荘民の一人は、飛び跳ねた氷の粒を体の熱で溶かし、汗が滴り落ちるようになっていた。とてもかっこよかった。キャストも打ち合わせが終わり次第、雪かきや看板作り、片付けなどをしていた。みんなが、それぞれの役割を自発的に見つけ、すぐに動き、会場が形作られていった。深夜まで作業していたYouTubeライブの準備は一見うまくいったかのように思えたが、翌日、本番前日に問題が発覚する…。
◯本番前日
午前はインドネシア体操や歌の合唱から始まり、裏方の転換の練習をした。午後からリハーサルが始まった。そのリハーサルの空気感は、今までにないものだった。一人一人が自分の役割を全うしながらも、重なり合うように一つ一つのシーンを丁寧につくりあげている様子が音響の席からみえた。その時はじめて音響の席は演技も裏方の仕事のどちらも見られる場所だと気づいた。
私はみんなの緊張感に影響され、音響としてとても集中していた。演者のセリフの一言一言が耳に響いて、今までの練習の過程や携わった人たちが思い出された。私は、その時その空間にいられることをとても幸せだと思っていた。
5. 「思ったこと」を伝えるっていい
そうやって音響に集中していた私だったが、つい湧き上がった感情を言葉で表したくなった。リハが終わった時には、次の文章が出来上がっていた。
私は思ったことをただ言っただけだったが、みんなからは「すごくいい言葉だった」「この言葉がみんなをつなぐボンドのようだった」と言ってもらえた。今まで、私は湧いてきた感情を言葉にして、伝えることをしてこなかった。でも、この日はどうしてか、その時生まれた感情を、この時に伝えなきゃいけないと思った。(言葉にも賞味期限があるのかな…)
その後、札幌から来たワークショップメンバーも加わり、全員で明日の本番の準備をした。この夜の私の仕事は、まだ成功していないYouTubeライブのテスト配信をすることだった。この3日間のみんなの練習風景を見て、現地で観られない人にも、必ずこの演劇を届けたいと思い、配信への思いが高まった。しかし、ひとりでは間に合わないと思った私は、ついに大学の優秀な友人に機材のことを相談し、深夜まで作業してやっとできそうなところまでいった。この時に、ひとに聞くこと、ひとを頼ることの重要性をあらためて感じた。彼は優しく教えてくれ、機材も貸してくれた。その友人にとても感謝している。
6. いよいよ本番
朝、みんなでテーマ曲『動いた先に』を歌い、それぞれが第一部の開演まで準備や練習を重ねた。演者、裏方、音響、照明、ライブ配信、受付、ワークショップ、ご飯づくり、なんでも屋さん(見えないけどとても気がきく人しかできない仕事)、みんながやるべきこと、気づいたことをどんどんやっていた。それは、水面の粒子が上下に運動して波を形成するようだった。みんなが本番に向かって動くことで、個々人の波が次々と重なりあい、大きな波へとなっていった。
第一部は、観客が入ったことで、演者の演技がより一層よい「演劇」となった。なんとか無事に終演し、二部への準備に入った。しかし、ライブ配信の音が聞こえていなかったことを聞かされ、マイクを変えなければと思いつつも、連日続く寝不足により気分が悪くなっていた。
そのまま何とか対応はしたつもりだったが、第二部の開場時間になって、ライブ配信の音が聞こえないというハプニングが起こった。司会を兼ねるたくみ役のりょうがが、とっさに観客のみなさんへ対応してくれたおかげで、なんとか修正して、音響席へ戻ることができた。
最後のライブのシーンでは、演者が一個人として発するセリフが複数あり、それがとても心に響いて心がキュッとなった。特に、わらじ荘を立ち上げ、2年間代表を務め上げ、4月から東京にいってしまう杏奈さんの「ありがとう」という一言は、セリフでありながらも、杏奈さん自身の言葉として、みんなに響いていた。(私は次のシーンに出るのに、涙が溢れた)
会場が最も熱くなっていた時、ハプニングはもう一度起こった。エンディングを映すプロジェクターを杏奈さんが操作したときに、映像が反転したことだった。このときもまた、りょうがが観客のみなさまへ対応してくれた。その間になんとか修正した。(第一部と二部でプロジェクターの変更があり操作が慣れていないことも良くなかった。)
7. 本気だったんだ…!
今回の演劇は、演劇後にワークショップも行われた。10代後半から20代前半の葛藤も描かれた作品だったため、ワークショップはその層へ演劇を見て感じたことを中心に複数の問いが設定されていた。観客の方と同じグループになり、自分がどう演劇に向き合ってきたかを伝えたときに、「演劇を見て、この演劇に関わっている人たちの本気が伝わってきた」と言われた。ああ、自分は本気だったんだ。本気ってこういうことなのか、と思った。しばらく忘れていた感覚だった。でも、自分一人でやっていたら、おそらく本気にはなれていなかったと思う。演劇に携わっていた一人ひとりが時間をつくり、熱を注ぎ、その熱が集まって、その熱い中にいることができたから自分も本気になれたのだと思った。仲間のありがたみを感じた。「一人だと早く行けることもあるが、みんなで歩めば遠くへ行ける」と思った瞬間だった。
8. 演劇を終えて 新たな夢
今思うと、最初は指示通りに音源を流すのが音響の仕事だと決めつけて、自分でつまらなくしていた。しかし、音響はシーンの切り替えやシーンの雰囲気づくりに欠かせないし、みんなの動きが見える特等席だということに気づいてからは音響として関われてよかったと思った。また、5年後の荘民役を演じることで、「演じることで人を知れる、自分を知れる」ということに気づき、演じることの楽しさもわかった。ライブ配信では、自分の知識不足ゆえに、直前まで成功せず、本番も音の問題が発生したりと大変なご迷惑をかけたが、「知らないことに足を踏み入れ、間違えながらも新たなことを学ぶ」過程はとても学びになった。人に頼ることの重要性、人とともに歩むことの楽しさ、すごさを体感した日々だった。つらく嫌になることもあったが、後から振り返れば、それも楽しかったと言える、つら楽しい日々だった。まさに苦楽一如。
今回の演劇は、演者以外にも裏方や照明・音響、受付、ワークショップ、ご飯作り皿洗い、会場設営・雪かき、ライブ配信、観客(役)などの役割をそれぞれが全うしていた。わらじ荘がどんな人にも役割が自然と生まれる「場」になっていた。「お互いに何かを学びあえる場」だった。この光景を見て、これこそ私が求めていた学びの場だと気づいた。
今までの教師から教わる一方的な教育に違和感を感じていた。しかし、わらじ荘での「場」を見て、今までのモヤモヤに光が差した。私は、こういう「場」をつくれる人になりたいと思った。自分一人では難しいかもしれないが、今回の仲間とこれから出会う仲間と一緒ならできると思う。
最後まで読んでいただきありがとうございました。今後の旅路でこの記事を読んでくださっているみなさんとお会いできたら幸いです。