短編小説・抱きしめる
「どうしたの?」
「うん・・」
僕は彼女を抱きしめる。しっかりと――、しっかりと。
「悲しいんだ」
世界は理不尽に残酷で、不条理に正義だ。
「悲しいんだよ。とても悲しいんだ」
僕は彼女を抱きしめる。強く。強く。
「悲しいんだ」
僕は彼女を抱きしめる。全身で、全霊で。
「どうしようもなく悲しいんだよ」
涙も出ないほどに悲しい時、僕は彼女を抱きしめたくて、抱きしめたくて、抱きしめていなければ、もう、どうにかなってしまいそうで、その不安定なこの心の今を、彼女のその温かい確かさで満たしたかった。
逃げ惑う人々――
許されるはずのない、人が人を殺すという残虐な行いの、その大量に正当化されていく、この横暴な権力に支配された世界の、無秩序に破壊されていくこの現実で、ただ逃げ惑い、追われた人々が、もう壊れてしまいそうに悲鳴を上げている。
その悲鳴が世界を切り裂いた時、人の残酷は、世界を覆う。
血を流す子どもたち。泣き叫ぶ人々――
誰がそれを許せるだろう。誰がそれを許せるだろう。
幼子の遺体――、父親の遺体の前で泣き崩れる女の子――、
死体、死体、死体、血、血、血、
泣き叫ぶ人々――、泣き叫ぶことしかできない人々――
恐怖、不安、恐怖、恐怖――、痛み――
散らばる肉片――、死んだ娘を抱きかかえる若い父親――。手足のない子どもたち――
もう涙も出ない疲れ切った母親――
飢え――
破壊された瓦礫の中で呆然とする子ども――
家族がすべて死に、病院でたった一人、うなだれる傷ついた幼い女の子――
「あああああああああああああああああっ」
もう、叫ぶことしかできない、言葉を失った人の心。
「うおおおっ、おおおっ、おおおおお」
許されるはずのないその暴力を、とめられないこの無力な存在のただ中で叫び、叫び、でも、変わらない現実に力尽き膝まづく。
一方的にただ殺されていく人たちを見ているしかない今。ただ傷ついていく人々を安全な場所で見ている僕――
「やめてください、やめてください」
人を殺すのをやめてください。
「やめてください」
そんな当たり前を、涙を流して訴える。
でも、それは届かない。それは届いて欲しいその心には届かない。
《広報によると、ガザでの戦闘で、約四万七千人が死亡し、一万四千人が行方不明だと明らかにしました。犠牲者の内、七割が女性と子どもで、二千九十二世帯は家族全員が殺されたとしています》
「こんなこと・・、許されるはずがない・・、許されるはずがないんだぁ・・」
呆然と呟く、大切な人たちの流した大量の血の前で膝から崩れ落ちる男性。
「神は我々の戦いを祝福されるでしょう」
だが、その人たちの神はそれを許すという。
「彼らの戦いは正義の戦いです」
支援する彼らの神もそれを許すという。
「この戦いは必要なものなのです」
それに追従する人たちの正義もそれを許すという。
狂った世界は、許されるはずのないその歪んだ思想を許してしまう。
《広報によると、両親もしくは、片親がいない子どもは三万八千四百九十五人に上るとしています》
「心の底から苦しいんだ」
呆然と呟く男性。
「神さまはどこにいるの?」
天を見上げる少女。
「もう、お父さんもお母さんもいないわ」
表情を失った女の子。
「お兄ちゃんは死んじゃったわ・・、耳が聞こえなかったけど、すごくやさしい人だったの」
やさしい兄を失った妹。
世界はなんでいつもこんななんだろう。
ありえたはずのそうじゃない世界はなぜ今ここにはないんだろう。
誰も傷つかない世界――。
誰もがそれを望んでいるはずの世界。それはなぜ今ここにないのだろう。
僕は彼女を抱きしめる。強く強く。今は生きているこの確かな温かさに、僕はしっかりと触れていたかった。この腕の中にしっかりと感じていたかった。
そうでなければあまりにも、あまりにもこの現実の世界は残酷過ぎて、その冷たさに、人があまりに当たり前に死に過ぎて、血が流れ過ぎて、人としての感覚が壊れてしまいそうで、だから、怖くて怖くて、人間の心が死んでしまいそうで、怖くて、怖くて――。
怖くて――
だから、僕は君を抱きしめる。