神戸市須磨区の教員いじめ問題から考える「教員は社会人なのか」の話
教師は聖職であって聖人ではない。
だから「人間として」国の将来を担う若者に健全で豊かな未来の作り方を教えなければならないし、「人間として」個々人の人格形成の手助けをするのが仕事だ。
伝えるのは知識だけではない。姿勢や豊かさも大切なんだ。
今回の記事は神戸市須磨区の私立東須磨小学校の教員が同僚から継続的な暴行や暴言を受けていた問題。
詳しい内容はググってください。
僕は教育の現場に憧れている
先に立場を示したいが、僕はこの事件に強い憤りと悲しみを感じていて、その理由の1つは「僕自身が教育の現場に強い憧れを持っている」からだ。
教員になりたいというよりも、迷える若者に僕の経験からサポートできればなと思っている。
そして周囲には現職で仲の良い教員も多い。
かなりセンシティブな内容なので先に僕のスタンスを理解してから読んで欲しい。
僕が今回話す教育現場とは義務教育の現場がメインで、そこに高等学校も入ってくるイメージで。
「健全な精神は健全な肉体に宿る」の意味
もともとの言葉は「健全なる肉体の中に、健全なる心」であって、そこに「宿る」なんて言葉は表記されてない。
その意味は「健全な精神と健全な肉体、この2つさえあれば それだけで満足するべきである」というもの。
そしてこうも訳される「健全なる精神は健全なる身体に宿れかし」と。
これは「健全な肉体に健全な心が宿って欲しいな」という願望。
意味かなり変わってくるよね。
この誤用を文科省が行なっているのだからタチが悪い。
校訓のように言われたことあるでしょ?やばいよ。
日本における「一流のスポーツマンは人格者」という謎の信仰の根源はこれだと思うのだが、教員はこの誤用を「教員は聖職者」という認識に当てはめて進んで来た。本来は願望も含めてそうだった。
その粗は少しずつ露呈して来たが「体罰がなくなる」なんて簡単なことにこれだけ時間がかかったことから、「日本の教育における悪い信仰心」はかなり根深い。
教員と教師の違いからも考えさせられる事柄だ。
学校は社会ではない
あそこは社会ではないし、社会の縮図でもない。
あそこは「学校」だ。
勉学に勤しむもよし、友達と遊ぶもよし、運動に励むもよし。ではない。
選択の自由度は思いのほか狭くて、そこから逸脱することは困難で、社会における「自己責任」や「選択の重要性」などを学ぶことが前提とされてない。
戦後何十年も根本のシステムが変化しないので仕方ないのか。
あそこは「社会に出る準備期間じゃない」ってことは認識して欲しい。
学校は教育機関であり、そこが担う範囲というのは現在限られている。
教員はどの立場で物事を教示しているのか
小学校・中学校・高校・大学と学び、その直後に教員として教壇に立ち教示・指導・弁を振るう。
彼らは何を学び何を伝えているのか?
学校という非社会から出ることはなく、また同じ非社会の現場に戻って来た。
彼らが得たものは何か?
何を教えることに特化していて、何を教えることに向いてないのか?
学校で習う勉学以外の何を教えられるのか?
教育機関で指導する「教育」というニュアンスに含まれる意味と、保護者や社会から期待される「教育」と、実際にその学生に必要とされる「教育」をしっかり判断して適切な活動をするには、かなり困難な立場だと思う。
教員は社会を知らないのか?
そんなことはない。
とくに現在の若い教員は学生時代に遊び、教職に就いてからも他業種の仲間と触れ合うことも少なくない。
合コンもナンパもパパ活もする。
社会を知っているはずなのに、学校と社会を切り離して捉えている。
教育機関をある種の聖域と勘違いしていて、そこが引き金になり幾多の問題が発生する。
教員は社会を知ったとしても、学生に社会を教えることに向いていない。
聖域という概念に囚われているうちは難しいだろう。
学校内での暴行や暴言は全て「いじめ」になるのか
今回の件での違和感の1つに「いじめ?事件だよね?」という多くの声が聞こえた。
学生同士の「いじめ」問題は年中起きていて延々と根本的な解決の兆しが見えない。
「いじめダメだよ」じゃ解決できない内容でも、なぜか学校の範囲内で収拾してしまうことも問題だ。
学校内の問題が事件として扱われる事例も多々あるが、実際の発生件数と比較すると雀の涙なのは明白である。
今回は大人の「いじめ」だった。
前述したように内容は暴行に暴言であり、加害者と被害者が明確になっているこれを「刑事事件にしない理由」はなんなのか?
戦後何十年も変わらない教育制度とは別の議論であり、これは「教育機関に社会通念が存在しない」ことの証明になってしまう。
今回の問題解決から学校に社会性を持たす方法
事件として、加害者の教員を逮捕すればいい。
てか普通そうでしょ。
生徒にも「いじめは犯罪なんだ」と認識させる事ができるし、そこから「普通はそうだよな」と思い、そして「今まで普通じゃなかったの?」「学校の普通って世間の普通じゃないの?」と考えさせろ。
もう一度言うが学校は社会じゃない。
あそこを社会へ出るための準備期間にしたいのなら、ちゃんと「社会通念に従って成長をサポートする」ことを考えて欲しい。
生徒を学校に閉じ込めるな。