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虹の足元②
ドアを開けると、そこにはひどく酔った女性が立っていた。たとえどれだけ広い心の持ち主でも「酔いどれ」という表現を使わざるを得ないほど、彼女は酔っていた。辞書の「酔いどれ」の項目には、その定義ではなくて彼女の写真を載せておいたほうが理解が早いだろうと思ったくらいだ。ごめんね、また終電逃がしちゃってさ、と彼女は悪びれもせずに、さも当然のことように玄関に上がり込んだ。
彼女の名は玲奈。絵に描いたような酒飲みだ。もともと玲奈とは飲み友達みたいなものだったが、二人で飲みに行く機会が増えるにつれ家で飲むことも多くなり、二人の境界線はお湯で割った焼酎みたいにピンボケして曖昧なものになっていった。響子と付き合うようになってからは会わなくなったものの、時折こうして夜中に突然やってくる。玲奈は酒を飲みだすと時間という概念が崩壊していくタイプの酒飲みで、終電をまるで放し飼いにしているかのような余裕さえ感じさせる。終電を無くすと、彼女はこうして俺の家にやってくる。深夜に突然やってくる酔っ払いのために部屋を貸すなど本来は迷惑この上ない話なのだが、かといって追い返して思わぬ事故に遭われるわけにもいかず、だらだらと引き受けるしかなかった。それに、確固たる自分の世界を持っている響子と比べると、酔っぱらって深夜でも他人の家に平気で転がり込んでしまう玲奈は可愛らしく思えたし、彼女に頼られて嬉しく思う自分も確かにいて、そんな自分の二面性に気づいては、酔ってもいないのに吐きそうな気分になったりした。
「ちょっとぉ、もう寝るのぉ?まだまだ飲みますよ、今夜は」
今度こそ寝床につこうと寝室へ向かう俺の背後から、酒臭いセリフが聞こえてきた。
「もうその辺にしとけよ。毎回そんな飲み方してたら、そのうち肝臓にストライキでも起こされて死ぬぞ、お前」
「どうせいつか死ぬもーん。だったらいつ死んだっていーもーん」
「死ぬなら他所で頼むぜ?勝手に転がり込んできてウチで死ぬとかマジで勘弁してよ?」
「えー、ひどーい!イクときと死ぬときは一緒だよ、ってAV見すぎた童貞みたいなセリフまき散らしてたくせにー。あんなこと言われたら出るモンも出んわ。シロクマさんも凍死するわ。アマゾンだって一瞬でサハラ砂漠だわ」
「いつの話してんだよ、もう寝るから電気消すぞ」
「本当にまだ響子ちゃんとしてないの?」
「うるせぇよ、お前には関係ない話だろ?ほっといてくれよ」
「お互いの世界を干渉したくないとか言ってたっけ?もしかして、それで響子ちゃんのこと気遣ってるつもり?相手にされてないだけだとも知らずにカッコつけてるけど、それって実はめちゃくちゃダサいから」
「お前にそんなこと言われる筋合いは無いんだよ。勝手に首突っ込んでくるなよ」
「今日って飲んでた?」
「さっきビール一本飲んだくらい」
「じゃ、飲みなおそうよ!明日休みでしょ?」
「もう十分飲んできただろ?今日はもういいよ」
「さっきの反応、図星って顔だったよ?響子ちゃんとのことで、絶対悩んでるよね。いつも家貸してくれるお礼に、相談乗ってあげるよ。今日はそこまで酔ってないから」
押しかけていた電気のスイッチから、ついつい手を離してしまう自分が情けなかった。
冷蔵庫からビールを取り出した。玲奈はロング缶を選んだ。どうやら彼女は、これだけ酔っていてもまだ本格的に飲むつもりらしい。華奢で小柄な玲奈は凛とした顔立ちで、一見するとミステリアスにさえ思えた。ところが実際はマシンガントークで大きな口を開けて豪快に笑う。いわゆる「黙っていればモテる」女性だ。プシュッ、と小気味よい音を立てて缶ビールを開け、グラスに注ぐこともせず缶から直接ビールを流し込む彼女の姿を見て、そういう真っ直ぐなところが案外嫌いじゃないんだよな、と俺は独り言ちた。「何か言った?」と聞かれたので、なんでもない、としらばっくれた。玲奈はしばらく黙ってただビールを飲んでいた。
「アツシ、あんたにとって、付き合うって何?」
不意に投げかけられた質問に、俺はすぐには答えることが出来なかった。
「そんなに考え込むようなこと?好きな人と一緒にいたいから、一緒にいるんでしょ?私はそれが「付き合う」っていうことだと思うけど。自分や相手の時間を尊重したいなんてほざいてるバカも巷には少なくないけど、私に言わせればあんなのは偽善であり自己愛なの。相手を大切にしている自分に酔っているだけで、ああいう連中がやってるのは恋愛ごっこみたいなものよ。人間だれしも、好きな人とはできるだけ一緒にいたいでしょ?好きだから一緒にいたいし、一緒にいたいと思えるからこそ、好きと言えるわけだし。好きでもないヤツと一緒にいたい人なんている?そんなの聞いたことないでしょ?好きでもない人と一緒にいたくないということは、一緒にいたくない人は好きな人じゃないってことになるよね?だからアツシ、あんたがやってることって本当に意味わかんない。あー、私ったら、なんでこんな当たり前のことを熱く語っちゃってるんだろ」
玲奈はここで一息ついて、ふーっ、とピアニッシモの煙を吐き出した。一瞬で部屋の空気をピンクに色づけてしまうこの煙草が、俺はあまり好きじゃない。ピアニッシモの煙には、ヤニ以外に何か得体の知れない不気味な成分が含まれていて、それは一度でもこびりつくと永遠に剥がすことのできないもののように思えた。
「アツシ、あんたは響子ちゃんを尊重しているからこそ干渉しないって言うけどね、少しでもあんたのことが好きだったら、放っておかれて響子ちゃんは黙ってないと思うよ?彼女の中で自分の優先順位が低いと知っているから、それを改めて思い知らされるのが怖いから、自分で勝手に距離をとってるだけでしょ?自分のこと、うんと棚に上げて言いますけどね、彼女のことを本当に大切に思ってる男だったら、普通はね、夜中に酔っぱらって終電なくした女友達を家に上げたりしないよ。アツシのそういう中途半端なところが、何もかもを台無しにしてるってこと。私は宿代が浮いて助かってるけどね」
「昔からそうだけど、玲奈、やっぱりお前とは価値観が合わない。自分が好きだからというだけの理由で相手の世界に押しかけるなんていうのは、俺が思う愛じゃない。相手の時間を自分が奪ってることになるんだぜ?片想いでこれからアタックするとかならわかるよ、そういう押しも大事だろ。でも、今、付き合っている状態で、お互いに相手のことが好きとわかっている状態で、それでもまだ相手の時間を奪ってまで一緒にいたいと思うのは、本当に相手が自分のことを好きなのかわからなくて不安だからじゃないのか?俺はそこに自信があるし響子を信じているから、会わなくても平気なんだよ。まぁ、玲奈みたいなタイプの考え方をする女の子には、わからないだろうけど」
「でも現にアツシは今こうして私を家に上げてる。時間と場所を共有して、二人で同じ銘柄のビールを飲んでる。それなのに響子ちゃんは今ここにいない。それが全てだと思わない?」
「それとこれとは別の話だろ。終電を逃したお前を、心優しい俺が泊めてあげてる。響子は終電を逃したりしない」
「終電を逃してアツシに泊めてもらってる私と、そもそも終電を逃しすらしない響子ちゃんと。アツシの心に近いのは、本当はどっちなのかわかってるんでしょう?私もわかってる。アツシ、私を泊めてくれなかったことないもんね。言葉は嘘つきだけど、事実は嘘をつかない。今この部屋で起きていることやこれから起きることが、アツシの心の中で起きていることそのものなんだよ」
翌朝、隣に横たわる玲奈の寝息で目を覚ました。窓の外はまだ暗く、かすかに赤く染まり始めた遠くの空が、これから新しい一日が始まろうとしているのだと語っていた。
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