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虹の足元⑦※最終話

 響子はしばらく黙って俺の目を見つめていたが、やがて目を逸らしてカクテルグラスをテーブルに置いた。グラスにはちょうど一口分ほどのジンライムがまだ残っている。

「本当にそう思う?私たちのこの場所にも、誰かから見て綺麗な虹がかかってるって、本当に思ってる?」
「うん。思うよ。かかってるよ、絶対」

 一呼吸おいて、決心したように響子が口を開いた。

「玲奈さんにも、その綺麗な虹は見えてると思う?」

 一瞬、脳がフリーズしたみたいに何も考えられなかった。なぜ響子が玲奈のことを知っているのだろう。この期に及んでその程度しか頭が回らない自分が情けないが、響子が玲奈のことを知っていることは事実だ。今更どんな言い訳も通用しないだろう。忘れていたとはいえ、皮肉にも一年の記念日が別れ話になるとは笑えない冗談だった。もともと自分から別れ話を切り出すつもりだったのに途中で気が変わってしまったことは、都合よく忘れることにした。
 二の句が告げないとはまさにこのことで、俺はひたすら黙りこくっていた。響子はそんな俺を急かすでもなく、何も言わず、ただ窓の外の虹を眺めている。

「玲奈には、虹は見えないと思う」

 ようやく絞り出した答えは、逆立ちしても及第点には遠く及ばない酷いものだった。

「じゃあ、今あそこに見える虹は、もしかして玲奈さんのところにかかってるのかな?私にはすごく綺麗な虹に見えるけど」
「もしそうだとしても、どっちみち玲奈がその虹を見ることはできないけどね」

 響子は深いため息をついて続けた。

「あっくん、ダメだよ、そんなことしていたら。私は玲奈さんのこと別に怒ってないよ。すごく寂しい気持ちだけど、あっくんと会う時間を持たなかった自分も悪いなって思うから。自分の時間を優先したい私にあっくんが合わせてくれてることも気が付いてたけど、そういう優しさに甘えちゃってたのは私が悪いから、あっくんが他の女の子と遊んでるのを私が怒るのは違うなって思う。でも玲奈さんのこと考えてみて。彼女はものすごく可哀そうな立場だよ。私が言うことじゃないかもしれないけど、あっくんが言うよりは随分マシじゃない?」

 何と返せばいいかわからず、俺はまた黙った。

「あっくんは基本的にすごく優しい人だけど、その優しさが時には人を傷つけてしまうこともあるの。常に百パーセント相手を受け入れることが優しさではないよ。嫌な言い方をすると、それはあっくんが楽をしているだけだと思う。あっくん、玲奈さんのこと好きじゃないでしょ?それなら好きじゃないってちゃんと言わなきゃ」
「そんなことないよ」
「いいや、そんなことあるね。あっくんは玲奈さんのこと好きじゃないよ。妙な優しさが邪魔して追い出せないだけだよ。もしあっくんが玲奈さんのこと本当に好きだったら、私なんてとっくにフラれてるはずだよ」
「いい加減なこと言うなよ。なんで軽々しくそんなこと言えるんだよ」
「あっくんのことが好きだからだよ。あっくんときちんと向き合って付き合ってるからこそ、わかるの。間違っても軽い言葉なんかじゃないよ」
「向き合ってるって言ったって、最近全然会ってなかったし電話くらいしかしてないだろ。そんなんで何がわかるんだよ」
「会ってるとか会ってないとか、関係ある?付き合うってそういうことだと思うよ、私は」

 俺は言葉に詰まった。

「会ってわかること、会わなきゃわからないことなんて、髪型変えたとか最近太ったとかその程度のものでしょ。相手がどういう人なのか。どんな考え方をする人で、どういう個性があって、何に照れてどんな時に笑うのか。そんなことさえも、いちいち会って確かめなきゃわからない関係なら、付き合ってるって言えないと思うけどね」

 響子は声のトーンを少し絞って続けた。

「私はあっくんのことを信頼しているし、私たち二人の関係性に自信があるからこうしていられるんだよ。会わなきゃ済まないのは自信がない証拠でしょ?相手の気持ちに不安がある証拠でしょ?落ち着いてよく考えてみて。あっくんは今、玲奈さんにすごく酷いことしてると思わない?」

 あれはいつのことだったろう。酔っぱらって終電をなくした玲奈が俺の家に来た時だから、彼女が俺の家に居候し始めるよりもずっと前のことだ。あの時も、玲奈と似たような話をした。好きなら頻繁に会うべきだし常に一緒にいるべきだと主張する玲奈に対して、俺は何と言ったか。響子が俺を好きでいてくれることに自信があるからこそ会わなくても平気なのだと言ったのは、他でもない自分自身だった。最初から答えは自分の中にあったのに、どうして忘れてしまっていたのだろう。一夜を共にした手前、玲奈を派手に追い出すこともできず、ずるずると今日のこの日まで流されてきた。俺は楽をしていた。考えてみればすべてが響子の言うとおりだった。そのすべてを、ここ最近ほとんど会っていなかった響子が言い当てて、毎日のように一緒にいる玲奈には見えていない。その事実がすべてを物語っているように感じた。

「玲奈さんにきちんと謝って、さよならを言わないと」

 諭すような目つきで響子が俺を見る。

「そうしないと、虹はかからないし見えることもないよ」




 バランタインをぶちまけて以来、玲奈は俺の家を引き上げて自宅に戻っていた。いくら電話をしても反応はなく、「話したいことがあるから、『かげろう』で待っているので来て欲しい」とメッセージを残して店で待っていることにした。二時間待っても三時間待っても彼女は現れず、今日は諦めて帰ろうかと腰を上げようとしたその時、隣に玲奈が座った。

「来てくれてありがとう。この間はごめん。悪かったよ」

 玲奈は何も言わず煙草に火を灯けて、ふーっと俺の顔にピアニッシモの煙を吹きかけた。その煙を、俺は瞬きもせずに受け止めた。

「なにが?」

 メニューに遠い目を投げかけながら、ぶっきらぼうに玲奈が言う。

「この間って言うか…全部悪かった。玲奈に真剣に向き合わずにいい加減な態度で接してしまったこと、本当に申し訳なく思ってる。謝って済むことではないけど、まず俺の気持ちをハッキリさせておきたくて。ごめん。本当に済まなかった」
「響子ちゃんには謝ったわけ?」

 意外な質問に俺は狼狽えた。

「あんた、自分が何したかわかってんの?久々にあんたに会えるのを楽しみにしている響子ちゃんに、あんたはあろうことか別れ話を持ってこうとしてたんだよ?天から地に突き落とされる気分だよね、本当に。相手の気持ちってものがどうしてわからないかねぇ。私としては二人が別れてくれたらそれ以上のことはないって、あの時は思ってたけど、響子ちゃんは別れ話されること知らないのか、って聞いた時、あんた何て答えたか覚えてる?『知らないだろうね』、だってさ。私ね、あれ聞いた時は本当に頭にきて、自分が醜いやら響子ちゃんが可哀想やら、いろんな気持ちでぐちゃぐちゃになったの。響子ちゃんには本当に申し訳ないなって思ったし、平気な顔して『知らないだろうね』なんて言ってのけるアツシの顔見たらさ、もうね、私が好きだったアツシじゃないなって思った。自分の中で何かがすーっと冷めていくのが痛いほどわかった。それで何よ、のこのこ現れたと思ったら、いい加減な態度で接してごめんだって?謝る相手も順番も間違えてるよ、思いっきり。響子ちゃんと話して多少は何か変わったかなと思ってたけど、全く何も変わってないね。アツシ、あんたみたいな人はね、相手を大切にするふりして自分のことばっかり可愛がってる。自分で傷つけておいて、何でその人が傷ついてるのかわからないんだよ。実は自分を大事にしてるってことに自覚がないからね。無意識な分、余計にタチが悪いのよ、あんたみたいな男は」

 玲奈は一息でこのすべてを言い切った。

「そうだね、玲奈の言うとおりだ。何もかも俺が間違ってたよ。何もかも。今更もう遅いかもしれないけど、改めて言わせてほしい。もう今までみたいな関係はやめよう。自分勝手だけど俺は響子と一緒にいたいから、別れてくれ。もっと早く言うべきだった。無意味に玲奈を振り回して傷つけてこんな結果になってしまって、本当に申し訳ない」
「もうやめて」

 玲奈が遮る。

「この期に及んでまだ私のこと平気で傷つけるよね。勝手にフラないでよ。別れるにしたって、一緒に過ごした思い出さえもあんたは無意味とか言うんだね。私にフラせて欲しかったし、せめて思い出くらいは大事にとっておきたかったのに、それも許されないんだね。まぁ、先にちょっかい出したのは私だから当然の報いなのかもしれないけどね。別れてくれだって?あんたみたいな男なんてこっちから願い下げだわ。アツシ、あんたはね、もっと人の気持ちとか、こころの痛みみたいなものを知ったほうがいいよ」
「自分では十分こころが痛んでるつもりだけど、まだ足りないのかもしれない。人に寄り添うってどういうことなんだろう。こうして隣に座って同じ時間や空間を共有することも、寄り添う一つの形なんだろうし、相手が一人で居たい時にはそっと一人にしておくのも寄り添いなんだろう。誰かを大切にするって、そういうことなんだと思うけど、考えれば考えるほどよくわかんねぇや。玲奈にはどういう風に接するべきだったのか。何を本当はしてあげられたはずだったのか。今の俺にはまだわからない。傷つけてしまって、本当にごめん」
「もういいよ、これ以上話しても無駄だから」

 玲奈は頭の上でまとめていた髪をほどいて、そっと零すように言った。

「せっかく久々に『かげろう』に来たし、最後に一杯飲まない?」
「いいね。一杯だけ飲んだら帰ろう」
「トイレ行ってくるから、その間にアツシ何か頼んどいて」
「わかった」

 俺は玲奈の後ろ姿を見送ってから、前に玲奈と来た時にボトルで入れた鳥飼を二杯、ロックで注文した。
 気を利かせたマスターは、玲奈が戻ってくるのを待ってからお酒を作ってくれた。

「なにこれ?もしかして鳥飼?」
「そうだよ」
「ひょっとして前にボトルで入れたやつ?」
「そうだよ。最後に飲むなら記念のお酒が良いかなと思って、頼んだんだけど」

 玲奈は傾けかけていたグラスをテーブルに戻して言った。

「アツシ、やっぱりあんたは、まだまだ人の気持ちがわかってないわ」

 すーっと深く息を吸って、玲奈は続ける。

「ボトルキープの「鳥飼」かあ。これは私には、飲めないな」

 俺が最後に見た玲奈の目は、薄暗い「かげろう」の灯りに照らされて、哀しく光っていた。




 家に帰って、響子にビデオ通話をかけた。スマホの画面に映し出される響子の表情は見えなくても、声のトーンが感情で彩られ、今彼女がどんな気持ちで何を考えているのかが手に取るようにわかった。

「ごめん。玲奈とのことも、今まで響子と正面から向き合えなかったことも、何もかもごめん。響子を言い訳に使っている自分がいたし、会えないんだから仕方ないと自分を正当化している部分もあった。そういう酷い態度をとっていたこと、心から反省している。本当にごめん」

 画面に映った響子の顔は黙ってこちらを見つめている。

「そのうえで言わせて欲しいんだけど、俺は響子のことが好きだ。もう一回、改めて一から付き合ってほしい」
「あっくん。今までのあっくんは、虹のような人だった。傍から見ていると優しくて綺麗な人なんだけど、近づくにつれて少しずつ見えなくなっていくの。そうしているうちに、気が付いたら虹の足元までたどり着いちゃって、その時にはもう何も見えなくなってるんだよね。今まではそう思ってたけど、よく考えたらそれってあっくんに限ったことじゃないのかもしれない」
「どういう意味?」

 俺は眉をひそめた。

「人間は誰しも皆そうなんじゃないかってこと。人と人との関係って、ある程度の距離があって初めて相手の顔も気持ちも見えるもので、離れているからこそわかる情報ってたくさんあると思ったんだよね。くっつきすぎると、そういうのがどんどん見えなくなっていっちゃう。抱き合ってるとさ、相手の表情って見えないでしょ?でも想像はできるよね。それは良い距離感を保って関係性が出来ているから想像できるのであって、初めから抱き合ったままなら、相手の顔なんて見えないから想像もできない。そんなことに似てるかもしれないって思った」

 俺は響子の一言一句を噛みしめるようにじっくりと聞いた。

「だから距離は必要なものなんだって気が付いた。だから私たちはやっていけるんだ!って、改めて腑に落ちた。今回のことでよくわかったよ」

 一息ついて、響子は迷いなく言った。

「私もあっくんが好きだよ。こちらこそ、改めてこれからもよろしくね」

 イヤホンから流れる響子の声は、世の中のどんな音色よりも強く俺の心に響いた。


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ジユンペイ
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