見出し画像

虹の足元③

 玲奈が家に来た日から、一週間が過ぎた。あの日玲奈との間に起きたことを除けば、何の変哲もない一週間だった。響子は相変わらずビデオ通話をかけてきたが、俺はやっぱりカメラをオフにして電話にだけ答えていた。いつもより尚更、カメラをオンにする気にはなれなかった。電話するのさえ嫌だった。その理由は自分が一番よくわかっていたけれど、響子は恐らく世界で最もその理由を知ってはいけない人なので、ピアニッシモの香りが声のトーンに滲みださぬよう、俺は細心の注意を払って電話をした。そんな調子だから、響子が何を話していたかなんて全く頭に残っていない。

 朝、スマホが鳴って目を覚ました。響子からメッセージが届いたことを知らせる通知だ。仕事が立て込んでいて時間が取れないので、この間約束した飲み会を延期してほしいという内容だった。
 飲み会。確かに、飲みに行く約束をしたのだから、言葉の定義上は間違っていないのだろう。集まって酒を飲む場を飲み会と呼んだところで、指摘すべき点は見当たらない。それでもどこかその言葉に空虚な響きを感じたのは、自分たちの関係もまた空虚なものであると自覚しているからなのかもしれなかった。せめて「デート」と表現してくれていたなら、たとえそれをキャンセルする連絡であったとしても、少しは愛おしい気持ちになれたのだろう。
 コーヒーを啜りながらスマホを眺める。スクロールで消えていく情報は、まるで流れる雲のようだ。目に止まるのはほんの一瞬で、次から次へと消えていく。流されていく情報の一つ一つにも、それを調べたり書いたりした人の人生や生活があって、決して雲のように軽やかに流されていいものではないのだろうけれど、生憎ひとつひとつの人生と向き合う暇なんて俺にはなく、ベルトコンベアのように黙々とスクロールする自分はなんて冷酷な存在なのだという気がしたが、そんな自分もまた誰かのスマホの液晶上を雲のように流されているのかと思うと、せめて少しでも目に止めてもらえるような、魅力的な形の雲でありたいと願うのだった。
 
 その日はよく晴れた土曜日で、土の薫りを運ぶ北風が鼻をくすぐる実に春らしい日だったから、散歩に出かけた。緑に染まった街路樹を眺めながら大通りを真っすぐ歩いていると、一週間働いた疲れも、淀んだ悩みも、何もかも浄化してもらえるような気分だった。
 角を曲がった次の道は少しだけひんやりしていた。午前中、まだ太陽が高くないせいだろう。マンションの陰になって、その道にはうまく陽が当たっていなかった。
 歩いていると、玲奈のことがふと頭をよぎった。玲奈は、体を重ねる夜だけは別人のように静かになった。彼女は渇いていたのだ。まるで心が脱水症状を起こしているかのように。その渇きを癒せるものが自分の中にどれだけあるのか、俺には自信がなかった。玲奈は俺の体を求めるというよりは奪っていたし、それは俺も同じだった。奪い合ってはお互いに何も残るものなどなくて当然だ。それでも、物理的に繋がっていることで心もそばにあると感じた。彼女を抱きしめれば抱きしめるほど、俺の心は落ち着いた。「今この部屋で起きていることやこれから起きることが、アツシの心の中で起きていることそのものなんだよ」と、玲奈の声が遠くでこだまする。玲奈に会いたい、と思った。次はいつ終電を逃してくれるのだろう。

「飲もうよ」と一言、スマホのアプリで玲奈に送信した。一陣の風が吹き、街路樹の若葉が力なく宙に舞った。



 夕方五時のチャイムと共に家へ帰る子供たちの流れに逆らって、俺は居酒屋「かげろう」へ向かった。ポケットには、LARKとピン札が一枚。江戸っ子気質の親父に似たのか、飲みに出かけるときは宵越しの金は持たないつもりでいる。己の虚栄心を満たすために見栄を金で買うような俺の生き方は、粋という文化とはとうてい相容れないものだ。恋人同士は対等な関係であるべきという考えから毎回きっちり割り勘にする響子と考え方が合わないのは、考えてみれば当然のことのようにも思えた。

 初夏。週末の「かげろう」は、大学生や休日の会社員でごった返している。玲奈にはレストランの個室でワインを傾けているほうが似合うように思えたが、大衆居酒屋の喧騒は、俺のため息や鼓動を掻き消すのにうってつけだった。カウンターに肩を並べて、ハイボールを注文した。


「価値観が合わないなんて言ってたアツシが飲みに誘ってくれるなんて、一体どういう風の吹き回し?」
「あれからいろいろ考え事しててさ。玲奈の言うことも一理あるように思えてきて、もう少し話したくなっただけ」
「一回寝たくらいでコロッと変わっちゃうような価値観だったってことね。アツシのそういうとこ嫌いじゃないけど」
「この間、付き合うとは何かって話したじゃん」

 俺は話の角度を少しだけズラした。

「自分や相手の時間を尊重したいなんて偽善だ、って玲奈は切り捨ててたけど、そこがずっと引っ掛かってたんだよね」
「そりゃあそうでしょ。相手のことが好きなのに会うのを我慢する理由ある?わざわざ共有する時間を減らして何になるの?偽善でしょ、どこからどう考えても」
「やっぱそうだよねぇ。なんか俺もそんな気がしてきてるんだ、最近」

 半分ほどまで減っていたハイボールを、俺はグッと飲み干した。

「いまいち実感が湧かないっていうか、響子のこと考えるたびに、俺たち何してるんだろうって思う。久々に飲みに行く約束してたけど、それもドタキャンされちゃったし。俺がいよいよヤバいと思ったのは、デートがドタキャンされてもそこまで落ち込まなかったんだよね」
「なるほどね。終わってるわ、それは確かに」
「それで改めて、好きって何だろうとか、なんで響子と付き合ってるんだっけとか考えてるうちに、そもそも今の関係を付き合ってると呼んでいいのかどうかさえよくわからなくなってきてさ」
「それで私を飲みに誘ったってわけ?」
「それはちょっと違うけど、まぁそんなとこ」
「面と向かってよくそんなこと言えるよね。もはや清々しいわ。なんか逆に気持ちよく飲めそうな気がしてきた。もっと飲も」

 俺は鳥飼をボトルで注文した。

「今起きていることが自分の心の中で起きていることだ、っていう話あったじゃん。あれも考え直したら、言い得て妙かもと思ってさ」

 玲奈は黙って煙草に火をつけた。

「やっぱりね、会わなきゃわからないことだらけだよ。形だけあっても、中身がないんじゃ何の意味もない」
「だったらアツシが会わなきゃいけないのは私じゃなくて響子ちゃんじゃないの?」
「もしそうなら、今日ここで玲奈と飲みに来てない」
「場所変えよっか。こんな所でする話じゃないよ、それ。絶対違う」
「それもそうだね」

 店を出て家へ向かった。



 歩きながら、玲奈はずっと黙っていた。かけるべき言葉が見つからず、俺もただ黙って歩いた。初夏とはいえ、夜はまだ冷える。空気が冷たいことも、誰かと一緒にいる理由の一つにカウントしてもいいのかなと思った。玲奈の手を握るべきかどうか、少し迷ってやめた。行く宛てを失った俺の手は、ポケットに戻るのをしばらく躊躇っていた。
 家に着くなり、ソファで玲奈はもたれかかってきた。「かげろう」での話の続きは、それだけで十分だった。感情を伝える手段は、なにも言葉だけというわけではない。むしろ、言葉では正確に伝わらないことのほうが多いかもしれない。食卓に放置された缶ビールがどんどんぬるくなっていくことも気にならなかった。玲奈を寝室へ促す。

 電話が鳴った。過去を背中に感じながら、俺は後ろ手に寝室のドアを閉めた。


  

いいなと思ったら応援しよう!

ジユンペイ
みなさまの支えのおかげで今日を生きております。いつもありがとうございます。

この記事が参加している募集