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毎日note#46(2021/03/27) 表現と意味について


どうも。ギタリストのジュンペイです。

今、依頼を頂いて、とある曲のアレンジ中。
アレンジの難しさは、「意味なきものに意味を持たせる」ことにあると思っていて。
今日はそんな中でふと考えた「表現と意味について」書きます。


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僕は爆笑問題の太田光さんを尊敬しています。
※田中さんを尊敬していないという意味ではありません。笑

以前、太田さんが語っていた話で印象的だったのが、故・立川談志師匠の落語の話。
晩年の師匠の高座で、師匠が舞台から消える瞬間を見たと彼は言います。
あまりにも完成された落語は、いつしかその内容が命を吹き込まれてひとりでに歩き出すのだそうです。
人が語っている話ではなくて、全身を用いた一つの表現として完成されると、舞台には師匠は見えなくなり、物語がそこで実際に起きている出来事であるかのように錯覚する(といういか、本当にその通りになる)のだそうです。

つまり究極の表現というものは、表現者が消えたときに完成するのだと。
その「究極」を、一生かけて実現しようと追い求めてきたのが立川談志なのだと、太田さんは語っていました。


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同じような話を文章についても聞いたことがあります。
書き手がその中に存在する物語はまだまだ駄作だという話。

先日、もう何周目かわからない『ノルウェイの森』をまた読み終えましたが、確かにあれはワタナベ君の物語であり、キズキの物語であり、直子の物語でもあり。登場人物は活字の中でその人生を送っています。本の中でほんとうに生きているから成り立つのです。

村上春樹ってこういうこと考えてたんだ、とは思いません。
何回も読み返したらそういう気づきが訪れることはあるにせよ、初めて読んだときに「これは村上春樹が書いたフィクションである」という前提はいつの間にか消え去っているものです。

そのことこそが表現なのだと。


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遠回りしましたが、じゃあ、音楽も同じなのか?と。ぼんやり考えていましたが、果たして本当に同じなのか?わからなくなってしまった。

作曲という芸の範疇では、同じことが言えると思います。誰々が作った曲だから良い、という判断はあまりしないですよね。何故その曲に感動するのか。感動的な曲だから感動するという、ただそれだけのことです。大好きな恋人が一生懸命歌っている曲だから好き、ということもあるでしょうが、それは曲が云々というよりはその恋人のことが好きということなので。

純粋に音楽そのものに感動するとき、作家のことを考えることはほとんどないでしょう。

つまり語弊を恐れずに言えば、良い音楽に意味のようなものは特にないということです。
良い音楽であることや、それを聞くこと、楽しむことには意味はあるけれども、何らかの意味を持った音楽だから良いものだというわけではないということです。


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ところがアレンジとなると、そうは問屋が卸さねぇんだなこれが!
アレンジというのは、どういう雰囲気にしたいのか方向性を持って行われる行為だからです。

つまり「意味」を持っていないと成立しません。
特に意味はないけどなんとなくギターソロ入れてみた、っていうのは、アレンジとは呼べません。
ひとつひとつの音やフレーズが、目的的に録音されるという感じかな?


この「意味」だの「目的」だのという考えが実に厄介なものなのです。
がんじがらめになると理屈っぽくてつまらないものになるし、かといって好き放題やればいいってもんでもない。普段はその辺のバランスをとって重心を探します。塩梅ってやつです。

じゃあ、首尾よくアレンジが完成したとして、「意味なきもの」へ昇華されたとして、器の小さな僕は「俺のギター何だったんだ?」と思ってしまう。意味のないものを作るためにギター弾いてんのか?俺は??

ライブだとこういう悩みは少ないんですけどね。良いライブというのは、何をしていたか記憶がないものです。


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なんだか考えすぎて支離滅裂な文章になってしまいました。
考えても答えが出ないなら、答えを探しながらギターを弾き続けるしかないんですけどね。その辺がしんどいところですね。


恙なく今日という日を終えることが出来たら、信じられないくらいの量のビールを飲みたいと思います。


ジュンペイ







おまけ

冒頭で紹介した太田光さんの芸についての話。もし興味がある方は聴いてみてください。
音楽でも文章でも絵でも芝居でも何でも、なにかしらの表現に携わる人にはきっと響くんじゃないかと思います。




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ジユンペイ
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