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虹の足元⑥

「顔洗って来いよ。その間に俺は響子と話しておくから。玲奈と俺のことは、そのあと改めて話そう。それでいいか?」

 玲奈は頷くでもなければ返事をするでもなく、部屋を出ていった。

 響子に電話をかけようとスマホを手に取ると、メッセージの着信通知が来ていた。

「この間はドタキャンしちゃってごめんなさい。最近、全然会えてないけど、好きだよ。久しぶりに会いたいな。いつ空いてる?」

 響子からだった。

「もしもし?響子?今大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ」
「さっきくれたメールの話だけど、急だけど明日って空いてる?」
「うん、全然空いてるよ。『かげろう』でもいく?」
「いや、響子の家がいいんだけど…」
「え!うち?」
「うん、直接話さないといけないことがあるから」
「そう。わかった、いいよ。うちおいでよ」
「うん、じゃあ明日ね」

 響子はまだ何か話していたようだったが俺は電話を切った。ソファに腰掛けて、深くため息を吐く。背中を丸めて肺が空っぽになるまで息を吐きだしたら、そのまま一分ほど息を止める。さっき吐き出したため息には心の淀みや汚れがたくさん含まれていて、まだその辺りを漂っているから、吐き出した後すぐに息を吸い込んでしまうと悪いものが再び体内に入ってしまう。小さい頃おばあちゃんに教わったリラックス方法だけど、実践したのは人生でこれが初めてだろう。案の定、呼吸を止めて十秒と持たずに息を吸い込んでしまった。

 玲奈が部屋に戻り、俺と対角線上にある椅子に座った。脚を組んで何も言わずにスマホをいじっているが、目の焦点が合っていない。いま何か話しても感情的になって上手くいかないだろうなと思った。
 ベランダに出てLARKに火を灯ける。まだそこまで遅い時間ではないから、向かいのマンションにもいくつか明かりがついている。その灯り一つ一つにそれぞれの生活や人生があって、そのトータルが社会だと言うのなら、今俺が過ごしている玲奈との時間は何なのだろう。こんな取るに足らない痴話喧嘩さえも社会のパーツにカウントして良いのだろうか?響子はいま何をしているだろうか。どんな気持ちで何を考えているのだろう。電話越しの響子の声を思い出すと、明日自分が何をしようとしているか改めて思い知らされるようで気が重くなった。

 ベランダから戻ると部屋はピアニッシモで臭くなっていた。

「さっきはごめんね。言い過ぎたわ」

 俺は玲奈の発言の真意を測りかねて黙っていた。

「でも煮え切らないほうが嫌だからこの際ハッキリ言うわ。私アツシのこと好きだから付き合ってほしい」
「だから響子ちゃんと別れてほしい、それが下の句?」
「本心はね。でも決めるのはアツシだし私は二人を無理に別れさせるつもりだってない。もともとアツシと付き合ってたのは響子ちゃんで私が勝手にアツシのこと好きになっただけなんだから」

 玲奈はピアニッシモの灰を落として続けた。

「単純な話だったんだよ、もともとはね。でもそれをややこしくしてるのが今の状況なわけで私はその点について納得いくまで話したいわけさ。そもそも、アツシは私のこと好きなの?」
「好きだよ」
「それはどういう意味で?」
「友達としても、友達としてじゃない意味でも」

 玲奈はまた黙ってしまった。自らの発言に玲奈を黙らせる威力があるだろうとわかったうえで言葉を選ばなかった自分がいた。

「でも玲奈は変ったよ、最近」

 玲奈は俯いたまま意識だけこちらに向けているといった様子だ。

「俺は前みたいな玲奈が好きだ。豪快だったりガサツな面もあったけど、それでいて人の気持ちを汲むことが出来て、一見すると言いたい放題言ってるように見えるけど実は的を得たことを言ってる。嵐のように騒々しいけどお祭りみたいに楽しくて、台風みたいに忘れた頃にたまにやってくる。そんなところが好きだった。今は前みたいにたまにしか会わないんじゃなくて常に隣にいて、それは嬉しいことだったけど、時間が経つにつれて少しずつ玲奈は変わっていった。その過程には俺も気が付かなかったけど、少しずつの変化って塵も積もれば山となるってやつで、変わってしまってから気が付くものなんだよ。最近、玲奈は俺のこととか俺たち二人のことばかり話してる。それは俺のことばっかり考えてるからだろ?自分で言うのも恥ずかしいけどさ。そういう近さが今の俺にとってはしんどいんだよ。今の関係では距離感があまりにも近い」

 玲奈はじっと俺の目を見つめた。非難や諦め、後悔や期待が混じり合った複雑なその目線は、俺の心をじわじわと締め付けた。

「結局、何も変わってないってことね。好きだからこそ一緒にいたい、ってあれだけ話したのに、アツシはまだ距離感がどうのこうのとか言ってる。隣にいるのに距離感もクソもある?いい加減にしてほしいわ、本当」
「好きなら一緒にいたいのは間違ってないと思う。でも、一緒にいないからといって好きじゃないっていうわけじゃないでしょ?そう思わない?玲奈はまるで塗り絵でもしてるみたいに、一緒にいない余白の時間をなるべく埋めようとしてる。玲奈のこと好きだけど、ずっと近くにいるうちに、玲奈のことがよくわからなくなってきた」

 玲奈は灰のほうが長くなった煙草を指に挟んだまま答えた。

「よくそんなこと言えるよね。いくら心や体で好きって言ってくれたって響子ちゃんがいる以上私は安心できないのに、そんなこともわからないの?一緒にいないとアツシのことが分からなくなるの。本当は私のこと別に好きじゃないんじゃないかって。ただアツシは優しいから私のこと追い出せないだけなんじゃないかって。でもそれって、傍から見たら優しさかもしれないけど私にとって見たら生き地獄なの、わかんない?そういうとこだよ、あんたは本当に」

 たとえ響子がいなくなっても玲奈の距離感は変わらないだろう。そのことを口に出そうか少し迷って、言うにしても今じゃないなと辞めておいた。

「一緒にいないと俺のことがわからない、か。それもそうだよね。人ってある日突然友達から恋人に変わるわけじゃないし、それは俺たちだって同じだと思う。長く友達でいすぎた。恋人になる準備や努力をしないといけないのかもしれないね。俺も悪かったよ、ただ好きって言ってるだけじゃなくて、もっと何かしないといけないよね」
「とりあえず私は今みたいな状況が続くのはめちゃくちゃ嫌なわけ」

 玲奈は立ち上がって、キッチンから新品のバランタインを持ってきた。もしや殴り殺されるのではと一瞬身構えたが、玲奈が静かに瓶をテーブルに置くのを見て意外にホッとした。

「どっちかにして欲しいの。響子ちゃんと別れて私と付き合うのか、響子ちゃんと今まで通り付き合うのか。それはアツシが決めることだけど、響子ちゃんと別れないなら私はもう二度とあんたとは会わない。今決めて。今決めてもらえないと、もしアツシが響子ちゃんと付き合うって言っても、黙っていられる自信がない」
「響子とは別れるよ」

 玲奈はグラスにバランタインを注ぐ手を止めて静かに俯いた。

「響子とは別れる」

 俺は繰り返した。

「その話をさっき電話でしてたんだ。明日会って話しに行くよ」
「え、じゃあ電話で別れ話したわけじゃないの?」
「してないよ、まだ」
「じゃあ、響子ちゃんは明日アツシから何の話されるのか知らないってこと?」
「知らないだろうね」

 その後のことはあまりにも唐突で面食らった。まず目が焼けるように染みた。その後に少しずつ、顔から上半身にかけてずぶ濡れになっていくのを感じた。強烈な樽の匂いに気づいてようやく、玲奈が手にしていたバランタインをぶちまけられたのだとわかった。

「やっぱ最高だね、あんたの言う通りだよ、アツシ」

 痛みに顔をしかめながら目を開けると、唇を震わせる玲奈が見えた。

「あまりにも近くに行き過ぎると、その人のことって、よくわからなくなるね」

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ジユンペイ
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