月が主役の天文学史(A lunacentrism on the history of astronomy)
天文学の歴史を述べる時、主役は一般的に太陽なので、月を主役にした叙述の試み
月と潮汐論
星々が地球や人間に何らかの影響を与えるという発想は割と普遍的らしく、伝え聞くところでは、文字を持たない民族も、流星を何らかの予兆と考えることはあったそうだ。
地球から見える星の中で、太陽と月は見かけ上最も大きく目立つだけでなく、比較的容易に観測できる影響がある。太陽が、熱と光の源で、影の長さと気温の変化が相関していることは、有史より遥か以前から直感されてただろう。
都会に住む現代人にとって、月の影響はわかりにくいけど、海洋潮汐への影響が一番気付かれやすいだろう。それ以外にも、重力加速度の小さな変動など、色々なところで微細な影響はあるけど、体感で気付くとは思えない。
潮位データを調和分解して出てくる周期成分の一つ一つを分潮と呼ぶらしい。潮汐学の知識はないけど、フーリエ級数では、周期比が整数比になる正弦波の重ね合わせでないと正弦波を分離できないので、周期比が無理数であるような波の重ね合わせから正弦波を抽出するのには別のアルゴリズムを使い、調和分解と呼んでるらしい。最初期のアルゴリズムは、George Howard Darwin(1845~1912)という人が1883年に発表したそうだ。
気象庁の分潮一覧表 東京(2021)を見ると、太陰月周潮という名前が付いてる周期成分は、周期が661.3092(hr)で、約27.55日に相当する。多分、月の公転周期27.3日に起因するのだろうけど、約0.25日の差の由来は分からない。太陰半月周潮という周期成分は、約13.66日周期で、27.32日の半分。こっちは、月の公転周期と、よく合う。どっちも振幅は小さく、人間が、これらの成分を体感で見出すのは無理だろう。
上の分潮一覧表で、最大振幅の成分は、"主太陰半日周潮"で、周期は約12.42時間となる。古代からは逸脱するが、唐代の8世紀に書かれたと言われている『海涛志』は、潮汐理論を記述した本で、28992644日の潮の満ち引きの回数が56021944回だと書いてるらしい。公開された電子化書籍を見つけられてないけど、これは、12.42時間に相当し、"主太陰半日周潮"の周期を、かなり精密に測定した結果と言える。約半日周期があることは、もっと以前から漠然と知られてただろうし、この測定結果を、月と関連付けたかは分からない。
分かりやすい月の満ち欠けの周期は約29.5日周期となる。月の満ち欠けと潮位との相関がどれくらいあるのか知らないし、海と殆ど無縁な私に全く実感もないが、中国の文献上は、王充(27?~97?)の論衡 書虛篇に
雑訳:「"濤"(説文解字に"大波也"とあり、明代の洪武正韻に"海中大波亦曰潮頭"とある)の上下は、月の満ち欠けに従っていて、大小や満ち具合はすべて同じではない」
とある文が、月と潮汐の関係を記述していると解釈されてる。短文だが、月の満ち欠けと潮位の相関を書いてるのは確かだろう。前後の文脈を確認すると、新しい知見としてではなく、むしろ常識のように書かれてる。
古代ギリシャの方にも、紀元前の推察があるらしい(未確認)。漠然とした経験則であれば、それこそ漁師や船乗りのような人に、もっと古くから知られてても不思議はないと思うが、確認する手段がない。
月と"天動説"
別に、月への好感度を下げようという陰謀ではなかろうが、現代では、一週間の始まりは月曜日となって"嫌われている"。日曜日から始める流儀も生き残ってはいて、英語の数え歌なんかでも、Sundayから始まる。プトレマイオスの"アルマゲスト"でも、まず、太陽と月が扱われ、惑星は、その後に来る。
古代の人にとって興味があったのは、地球から見た星の動きだったから、地球を中心とする座標系で計算したかったのは当然だろうが、それを別にしても、太陽と月のみの運動を考えるなら、地球を中心にした座標系で考えるのは、それほど悪いとも言えない。月と太陽が地球を中心とした円軌道を動いているというモデルは単純だし、惑星を考慮しない限り、割と便利だったかもしれない。
惑星が、いつから知られていたのかは定かでない。肉眼で見える5つの惑星は、特定の発見者がいるわけでもなく、文献に残るより古い時代の知識と思われる。他の星々が、規則的に一方向にのみ移動するのに対して、惑星は(見かけ上)逆行することがある星として、目を引いたのだろう。中国の五行思想も、惑星の観察から直接生まれた可能性もある。
やがて、太陽、月、惑星は、他の星と比べて、地球に近い所にあると認識されるようになった。この事は、今となっては望遠鏡で見れば明らかだが、いつ頃から知られてたのか定かでない。西暦500年頃、インドで編まれた天文学書"アーリヤバティヤ"には、太陽、月、惑星までの距離や直径などの天文定数が記載されている。数値自体の精度は、全く低いが、それでも、(太陽以外の)恒星より近くにあるとは理解されてたらしい。
"アーリヤバティヤ"の天文知識は、プトレマイオス以前の西ユーラシアの天文学に由来すると考えられてるので、紀元前には、地中海周辺で、太陽、月、惑星が近くにある星だと認識されてたのだろう。
(アルマゲストの記述によると)ヒッパルコスの測定では、太陽・地球間距離と月・地球間距離の比は、およそ490/67.3≒7.28倍ほど(現代の測定では、約400倍)。一方、アーリヤバティヤでは、2887666.8/216000≒13.37倍になっている。アーリアバティヤの数値は、Aryabhatiya of Aryabhataから採った。
更に次の節で、地球、月、太陽の直径があり、特に、太陽直径/月直径は14で、両者の(地球からの)視直径は、かなり近いので、距離の比も、これに近い数値となっている。プトレマイオスの見積もりで、約19倍らしいので、アーリヤバティヤは、ヒッパルコスとプトレマイオスの見積もりの中間くらいということになる。但し、アーリヤバティヤでは、地球の直径が、1050(yojanas)となってて、地球と月の距離は、地球半径の400倍以上となり、これはヒッパルコスが得ていたとされる見積もりより大分悪い。
また、アーリヤバティヤでは、地球から近い順に、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星の順番であり、この順序自体は、バビロニア天文学で見られるそうだ。プラトンなんかは、月、太陽、水星、金星、火星、木星、土星の順序を採用したらしい(原典未確認)。
アーリヤバティヤの記述では、また、月の直径が、他の惑星より大きいとされている。プトレマイオスの惑星サイズの見積もりは発見できてないけど、月がそれほど大きいと思われてたなら、月を見捨てて、太陽を中心にした座標系を使おうとは決断しづらかったかもしれない。
地球と太陽の距離は、無数の人が測定を行って、少しずつ改善してきたので、正解に到達した特定の人物というのは存在しないけど、かなり現在の値に近付いた(誤差10%未満)人として、一般的には、1672年のジョヴァンニ・カッシーニが挙げられる。ティコ・ブラーエは、地球太陽距離を地球半径の1150倍と見積もったそう(arXiv:1112.1988)で、これはプトレマイオスの見積もりである1210倍と大差なく、少し悪い。
しかし、ティコ・ブラーエは、他の惑星が、月より大きいと見積もっていたらしい(同論文TABLE1)。また、ブラーエの"太陽〜惑星距離:太陽〜地球距離"比は、火星、木星、土星に関しては結構良くて、金星、水星、地球は、どれが一番太陽に近いのかも分かってなかったらしい。
計算と印刷
西暦1600年頃、中国になくて、ヨーロッパにあったものとして、秒まで測定できる時計と、高精度な三角関数の計算法が挙げられる。
古来から、時計は、天文学の重要な機器の一つでもあって、紀元前には、地中海周辺地域、インド、中国などに存在していたと思われる。その後、水時計は、1000年以上、天文機器として利用された。
ヨーロッパの機械式時計の歴史は、不明なことが多い。最初は、キリスト教の修道士たちが導入したものかもしれない。初等教育の完備されてない時代に、宗教家が知識階級の一角をなすのは、日本の仏教僧と同じようなものだろう。中世ヨーロッパ最古の実用幾何学書の一つは、Gerbert of Aurillac(後のローマ教皇シルベスター2世)が書いた。
文献としては、14世紀前半の製作手引書があるらしい。15〜16世紀にヨーロッパ各地で、天文時計が作られた。17世紀になると、ヨーロッパの複数の都市で、clockmakerのギルドができ、Jost Bürgiは1580年頃、秒針のある時計を製作したと言われる。人間の認識できる時間が、数十ミリ秒〜数百ミリ秒であることを考えると、それに相当迫っている。
分解能の高い時計の出現は、それ以前に殆ど存在しなかった分野を生み出した。天文学を除けば、時間を変数とする計算は散発的に見られるのみだったが、時間は物理学の基本単位になった。
科学史の中で、時計の役割が強調されることは少ないと感じるのだけど、20世紀の物理や工業技術で、真空ポンプが果たした役割が、特に強調されないように思えるのと似ているかもしれない。真空ポンプの高性能化なしに実現できなかった技術や実験は数多い。それらの多くは、庶民が自宅やガレージで実験するのが困難になっている。
三角関数は、西ユーラシアで使われていた"弦の表"(文献上では、最古の"弦の表"はアルマゲストのもの)から派生して、古代インドで定式化され、アッバース朝の数学者も、インドから学んだ。三角関数の効率的な計算には、数表が必要であり、高精度な計算を行うのに必要な数表は膨大になる。
勿論、数表をコンパクトにして、計算法を工夫する道もあるが、数表のサイズと計算に要する時間にはトレードオフがある。現代の計算機は十分早いので、実質的に数表を必要としない(マイコンや組み込み機器で三角関数テーブルを使用することはあるが)が、計算機がない時代には、計算量を出来る限り、減らす方が現実的だっただろう。
多分、印刷技術は、大きな三角関数表の流布に貢献しただろうと思う。容易に想像できることだが、何十ページ、何百ページもある数字の羅列をミスせずに写経するのは難しい。印刷以前の(天文や暦とは関係ない)古文献で、数値情報が載ってる場合に、写本間で数値が違うのは珍しくない。
アルマゲストの"弦の表"は、ケンブリッジ大学所蔵のギリシャ語写本で3ページ、1952年の英訳版で4ページしかない。"アーリヤバティヤ"に掲載されてる正弦表は、更に小さい。アルマゲストには、多くの数表が含まれ、"弦の表"が最大というわけでもないが、英訳版で見ると、個々の表は最大で10ページ強に収まっている。
何事にも例外はあるというか、気合があれば何でも出来るというか、13世紀に作成されたアルフォンソ天文表は100ページ近い数表を含んでいる。後に印刷版も作られたが、当初は、手書きだったようだ。どれくらい写本が作られたのかは分からない。当時の国家プロジェクトだし、金を持ってる人なら、100人の人員を集めて、一人一ページ写経させるくらい、どうってことなかったのかもしれないが。
15世紀に、レギオモンタヌスは、大きな三角関数表(sin表とtan表)の計算と作成を行い、ヨーロッパで開発されたばかりの印刷技術によって出版した。レギオモンタヌスの著作は複数あり、内容も確認してないが、Tabulæ directionum profectionumqueには正弦表が含まれるらしい。この本は、検索すると、中身を見ることができ、150ページ以上に渡って、延々と数表が掲載されている。
様々な天文計算の結果も、数表の形式にまとめられたので、天文学の成果を広く活用するという点からしても、印刷技術は重要だったと考えられる。コロンブスは、Abraham Zacutoが1473年までに完成させた天文表を持って、1504年に皆既月食を予言したと伝えられる。ヴァスコ・ダ・ガマも、Zacutoの用意した(別の?)天文表を利用したらしい。
数表は、20世紀に電子計算機が普及するまで、数値計算の基本的手段の一つだった。当然、作成の段階でも、間違いは多発する。1600年以後、多くのヨーロッパ人が、自動計算機械を構想したのも、数値計算の大変さとエラーの多さを、身を以て経験してたからなのだろう。19世紀のバベジも、数表の間違いの多さに辟易したことが契機で、計算機を作ろうとしたと言われている。
20世紀以降も、計算機の性能は向上し続けてるが、計算能力の向上は、中世以降のヨーロッパから継続的に続くものと言える。現代文明は、計算で作られていると言っても過言ではない。
ヨーロッパ外の計算天文学
16世紀の他の地域を見ると、オスマン帝国には、タキ・アルジンという人がいた。タキ・アルジンの著作は、アラビア文字によるトルコ語らしく、私には全く読めないし、同じく言葉の問題で、オスマン帝国の内実というのも分からない。
アッバース朝が滅んだ後、イスラム天文学の研究は、中央アジアで、マラーゲ天文台の学者、ウルグ・ベク天文台の学者などが受け継いで発展させた。それらの知識は、おそらくヨーロッパにも伝わっていたが、タキ・アルジンも、その成果は受け継いでいたかもしれない。
一般的に言われているところでは、彼は、当時としては高分解能の機械式時計を作成していたらしい。タキ・アルジンは、ヨーロッパの時計を研究したらしいので、機械式時計に関しては、ヨーロッパの方が先進国だったのかもしれない。
天文観測も行い、同時代のティコ・ブラーエに匹敵する精度だったとも言われる。イスラム圏の数学知識を学んでいたなら、多分、三角関数の知識もあった。しかし、オスマン帝国では、ムスリムの印刷は禁じられていた。タキ・アルジンは、コンスタンティノープル天文台を築いたが、何があったのか、1580年に破壊されたそうだ。
南インドでは、ケーララ学派が形成されて、計算に関しては、当時のヨーロッパにない知識、概念、方法があった。どこの地域でも、天文学は数学の一部で、ケーララ学派も、天文計算のために、数学を発展させた。数値計算を嫌うことはなかったが、印刷技術はなかった。インドの場合、そもそも測定技術が計算技術ほどには進歩してなかったかもしれない。天文観測について、ケーララ学派が、どうしてたのかは分からないが、特に知られてないということは、それほど重視されてなかったのかもしれない(単に、研究してる人が少ないという可能性もあるが、私の力量で調査するのは大変)。
中国には、印刷技術があり、宋代に作られた機械式水時計(水運儀象台)もあった。水運儀象台は、枢輪と呼ばれる水車(機械式時計の"ガンギ車"に相当する部分)が、24秒ごとに10度回転し、一刻で一周するというもの。当時の一刻は1/100日=864秒という定義で、その後、正確に一刻=15分=1/96日という定義が採用されたこともある。
水運儀象台の原理的な分解能は24秒単位になると思うが、一刻より細かい精度での測定がされたかは不明。誤差の大きさは、Wikipediaによると、一日で2分とあり、20世紀の(庶民が使用する)機械式時計でも、一日に数十秒はずれると言われてたらしいから、(Wikipediaを信じるなら)それほど悪くはない。2023年現在、スマホは、水晶振動子が組み込まれていると思うけど、定期的にNTP同期もしてる。NTPの同期がなければ、水晶振動子でも、一日に一秒程度は、ずれる。温度補償があれば精度は数桁向上するらしい。中国で、その後の時計の発展が、どうだったかは分からない。
元と明の時代には、イスラム圏の数学(天文学や天文機器設計を含む)と、中国の伝統を汲む数学、暦学が並立していたが、没交渉ではなかった。13世紀中盤に元が成立した後、イスラム流の天文学と中国流の天文学を扱う部署が別々に設けられた。前者として回回司天監が設立され、また、後者の継承者である郭守敬は授時暦を設計した。ヨーロッパで、アルフォンソ天文表が作成されてから、数十年ほど後になる。
授時暦では、北宋末期の人である沈括(1031〜1095)が夢溪筆談 卷十八技藝で説明している"會圓之術(会円の術)"という近似を利用して、三角関数、逆三角関数を計算したらしい。沈括は司天監の職員を兼任してたこともあり、採用されなかった奉天暦という暦法を設計したこともあるそうだ。夢溪筆談には天文関係の記事も多い。水運儀象台が完成したのは1090年代だが、沈括は隠居してたので、その存在を知ってたかどうかは分からない。
"沈括の近似式"は、現代の記号で書けば
$${x \approx \sin(x) + \dfrac{1}{2} (1 - \cos(x))^2}$$
と等価($${0 \leq x \leq \dfrac{\pi}{2}}$$)。$${v=\cos(x)}$$とおけば、$${x \approx \sqrt{1-v^2} + \dfrac{1}{2}(1-v)^2}$$によって、$${v}$$から$${x}$$を計算でき、$${x}$$から$${v}$$を計算するのも、4次方程式の計算に帰着する。高精度の数値が必要となれば、開平方一回の計算にかかる時間も無視はできないと思うし、"沈括の近似式"自体の近似精度も、そこまで高いわけではない。
郭守敬は、イスラム圏の観測機器を利用したと伝えられる。三角関数は学習しなかったのか、理解できなかったのか、不要と判断したのかは分からない。
明の時代(1368〜)にも、授時暦は、ほぼそのまま引き継がれ大統暦と名前だけ変えた。回回司天監も引き継がれた。明朝小史卷一洪武紀に以下のようにある。
回回暦を理解するために、イスラム暦書、天文書の漢訳も行われたようだ。ヨーロッパで、トレドの翻訳運動が11世紀末には開始してたことを考えると、中国の始動は2〜300年は遅い。明代に書かれた回回曆関係の書籍を調べると、以下のようなものがある。中身を読んではない。
回回曆法(公開されてるものは見つからず):1382年に、吳伯宗と馬哈麻等(ムスリムの誰かだろう)による口述筆記で翻訳されたらしい。原書は未調査
回回歷法釋例:著者は貝琳(1429?〜90)とあるので15世紀後半の成立だろう
七政推步:これも貝琳による。1477年頃の書らしい
16世紀には、顧應祥(1483〜1565)という人が書いた弧矢算術という本もある。いつからある用法か定かでないけど、円弧から対応する弦までの最大距離を、"矢"と呼んでいる。つまり、半径が1で角度$${\theta}$$の円弧に対して、弦の長さは$${2 \sin \dfrac{\theta}{2}}$$で、矢の長さは$${1-\cos \dfrac{\theta}{2}}$$これは、天文書ではなく、純粋な算術書で、現代なら三角関数を使う計算を、近似的に行う方法を与えた本と言える。
16世紀後半は、もうイエズス会宣教師がやってきた時代(マテオ・リッチのマカオ着が1582年)で、この時代の中国の数値計算精度は、他の先進地域と比べて低いと言っていいと思う。
明史 志第七曆一に、大統暦と回回曆の食予測結果の比較が記録されている。
嘉靖七年は1528年で、この日食は、Annular Solar Eclipse of 1528 November 12じゃないかと思う(日食二分四十七秒は、時間ではなく、食分0.247に相当するらしい)。現代の計算によると、単純な食の有無だけで言えば、回回曆が正しかったんじゃないかと思うけど、記録は、不食となっている。
よく分からないけど、こうした比較記事が残っているということは、回回曆が忘却されたり無視されていたわけではないということだろう。
17世紀初頭、明末期の中国では、ヨーロッパ天文学の成果を使って、新しい暦の作成を開始した。その責任者だった除光啓は、以下のように書いている。
「(食の予測に関する)漢以前の時間誤差は日のオーダー、唐以前の誤差は時のオーダー、宋元以来、誤差は刻(約15分)のオーダーになったが、今その誤差は分のオーダーである」
誤差の大きさは、文字通りでないにしても、時代と共に精度向上は確かにあって、当時のヨーロッパ天文学が、一層、高精度な予測に到達していたんだろう。
また、次のような記述もある。
「漢の時代から1350年に68回の改暦を経て授時暦がある。これらは、粗雑から精密へ進み、先の誤りは後に正された。古法がよくて、後の暦法は失伝により改悪されたというのは、誤った論である」
古法を良しとするのは、ヨーロッパで言えば、アリストテレスが正しいとするようなもので、どこの地域にも、保守派と新奇派がいる。
そんなわけで、1600年頃、ヨーロッパと(おそらくは)オスマン帝国のみが、高精度・高分解能の時間測定技術と、高精度の計算技術を備えていた。オスマン帝国は何が起きたのか詳細が分からないけど、別に、当時のヨーロッパ人が、何か悟りを開いて、"正しい事実"を認識できるようになったわけではないだろう。古代から受け継いだ天文学の方法をベースに、継続的に計算と測定の精度改善に努めた結果、史上最高精度に到達した。
江戸時代の日本も、18世紀には、ヨーロッパ天文学を採用して暦の作成を行った。計算技術については、和算があり、測定技術に先行して進歩した。時間測定については、垂揺球儀という器具が18世紀末頃に開発されたらしく、一分より小さい分解能があったようだ。伊能忠敬も使ったとされる。17世紀や18世紀前半の測定技術については不明。
私が見る限り、和算は系統だった数学概念を発展させなかったものの、18世紀初頭でも、計算技術は、数値計算するだけなら十分な水準に到達していたように思う。計算技術だけあっても、測定技術が伴わなければ、天文学をやるのに十分でないという事例の一つかもしれない(インドのケーララ学派についても言えるかもしれないが)。
ついでに、宋、元、明の天文学者の経歴を見ると、沈括、水運儀象台の開発責任者である蘇頌、徐光啓は、科挙の合格者。郭守敬は、現在の河北省(北京周辺)近くの出身らしいから、生まれてすぐに、出身地は、モンゴルの支配となり、モンゴルに仕えたようである。郭守敬が若い頃、末期の南宋では科挙を実施してたかもしれないが、モンゴル〜元では当初実施してなかったので受験する機会はなかったのだろう。
そういうわけで、彼らは科挙合格者の中でも算学を得意としてたのだろうが、基本的に、エリートの政治家と学者・技術者の兼業という側面が強い。灌漑、土木、水利などの事業に携わった人も多いのは、算学の才能を買われてのことと思われる。
知識量の少ない時代なので、イスラム圏や(1600年以前の)ヨーロッパも、専門の"数学者"とかがいたわけではなく、"数学"の出来る人も、色んな分野に手を出してたり、本業は無関係という方が普通。それでも、これらの地域では、ウルグ・ベクのように君主が数学者、天文学者という例もないわけではないが、学者と政治家は兼任しないのが一般的だと思う。
考えてみると、中国では、改暦作業や天文観測は、司天監なり欽天監の作業だけど、国家に一つしかない部署なので、特に人選に困ることなく、別途の人材育成プランを用意する必要は生まれなかったのだろう。ただ逆に、天文学に関わりたいと思った人がいても、この進路は狭き門だったと思われる。
16〜17世紀ヨーロッパの場合も、多くの天文学研究者は、国家の支援を受けてたり、大学で研究してたりすることも多いが、国家が沢山あった分、受け入れ先は複数あったと思われる。中国は分裂してた時期もあるが、一つになってる期間が割と長い。
勿論、それ以外に、"民間"/在野の天文学者がいなかったかは分からない。日本の場合は、江戸時代まで朝廷が暦を管理していたが、密教の流れを汲む宿曜道の僧も、日食・月食予測を出したりしている。中国でも、仏教僧は相当数いたようだから、在野の天文研究家がいても不思議ではないけど未調査。天文学でない算学関係なら、例えば1300年頃に『算学啓蒙』を書いた朱世傑は、官に就かずに放浪していたとされる。
月と天文学
17世紀初頭、ケプラーの法則によって、地球を含む惑星の運動を、高い精度で予測できるようになった。ケプラーや同時代の人が、月の運動を、どう考えたのかは分からない。月の軌道の精密な予測には、地球と太陽の両方の重力を考慮する必要があり、これは三体問題なので、精度を求めると計算の難易度は高い。ケプラー以後の17世紀ヨーロッパでは、惑星運動の予測精度に、大きな向上はなかったように思われる。
17世紀のヨーロッパは、まだ神学とか哲学、形而上学に踏み込みがちな人が多い。大学教育を受ければ、神学の授業もあったらしいから、致し方ない面もあるだろう。それで惑星運動の原因というのも話題になった。
当時のヨーロッパでは、究極の原因は"神"だろうが、それは別として、自然現象の原因を考える分野は、本来の"自然学"(Physica、英語ではphysics)だった。自然現象の理解に、自然学と数学の両方からの議論が必要という意見は、アッバース朝の時代にもあった(イブン・アル・ハイサムなど)し、当時のヨーロッパでもあった。
中国だったら、"神”の代わりに、"道"とか"理"になったかもしれない。星は気によって動くと書いた古代中国人もいる。沈括の夢渓筆談に、月の運行の遅速は他の星との"相互作用"で生じる(と読める)記述がある。
雑訳:「月の運行には遅速の定数があり、速い時に前方に星があるのは、"如子信"が説いた通り。これまた、陰陽が相互に影響しあい、互いに結びつくためである」
地球や太陽の重力に比べれば、他の星の影響は無視できるので、沈括が正しい答えに達していたとは言えないし、実際のところ、「物が勝手に動いたら霊や小鬼の仕業!」っていうのと同レベルの発想でしかない。夢渓筆談は、ジャンル的には"随筆"(雑考)のような建前で書かれてるから、学術書と同列に扱われては、作者も不本意かもしれないが。
昔も今も、物理法則を記述する数式は、数量(直接測定可能でも不可能でもいいが)の間の関係を記述するだけで、因果関係という含意はない(物理法則としての因果律は別件)。17世紀ヨーロッパにも、惑星運動の根本原因に言及することなく、力の数学的性質に注力する人もいた。
ロバート・フックは、1666年にOf gravityを公開し、 1674年のAn attempt to prove the motion of the earth from observationsでは、慣性の法則と共に、天体の間には重力が働き、それは近付くほどほど強くなるという予想を述べている。この重力が、何によって生じるのかという議論はない。
逆二乗則は書かれてないし、天体(celestial bodies)の間に、重力(Attraction of Gravitating Power)が働くとは述べられているものの、重力が、全ての物体間に働くと考えてたのかも分からない。
誰が地表での重力加速度を精密に測定したのか明らかでない。ガリレオが決定した気になってたことは確かだが、ガリレオの数値は、おそらく間違っていた。天文対話(1632年)の中の2日目の章で、月(の軌道上)から物体を落とすと、地球の中心に到達するまでに、3時間22分4秒かかるだろうと書いている(些細なことではあるが、月の表面から地球の表面への落下ではなく、月の中心から地球の中心への落下を対象としていたように読める)。
自由落下距離が時間の2乗に比例するとして計算すると、重力加速度を$${5.2 \mathrm{m/s^2}}$$程度と見積もってたことになる。月と地球の距離は、紀元前から概算値は知られているので、これほどの誤差が生じたのは、ガリレオの測定ミスか計算ミスと思われる。
メルセンヌは、単振り子の長さと周期から、重力加速度を得たようだ。秒針のある時計が開発されてたから、高所からの単純な自由落下も行ったそうで参考にはしたろうが、落下開始点が高いと空気抵抗の影響が大きくなり、開始点が低いと、時間計測の分解能が秒程度しかないことが、精密測定の障害になる。
1633年のメルセンヌの計算では、月からの"自由落下時間"を、2時間29分14秒としているようで、月と地球の距離を$${384400 \mathrm{km}}$$とした場合、$${9.6 \mathrm{m/s^2}}$$程度の加速度に相当する。18世紀や19世紀には、重力加速度を測定するために、ボルダの振り子とか、ケーターの振り子などの実験装置が考案された。
この時代には音速の測定も試みられていて、メルセンヌは最初の人ではないが、やはり音速測定を行ったらしい。Wikipediaによると、メルセンヌの音速測定値には、数十%の誤差があったらしい。当時は、そもそも、音速が、どれくらい安定しているかも定かではなかったろう。これも時計の分解能向上に誘発された測定だと思う。
1659年に、オランダのホイヘンスは、遠心力に関する本De vi Centrifugaを書いている。この本の知識を使うと、地球が静止している座標系で、月が地球の周囲を近似的に等速円運動していると考えて、月と地球の距離から、月の加速度を計算できる。現在知識では、等速円運動を座標で書いて二回微分すると加速度が出るということだけど、当時は回りくどい議論が必要とされた。
地球と月の距離が、地球半径の約60倍であることは、古くから視差の観測によって知られていた。地球半径も、紀元前から多くの推定があったが、1669年ののJean Picardの報告では、$${6372 \mathrm{km}}$$だった。月の公転周期は約27.3日である。
月と地球の距離$${R=60 \times 6372000 \mathrm{m}}$$と公転周期$${T = 27.3 \times 86400 \mathrm{sec}}$$に対して、等速円運動近似の下で、加速度は、$${R \left( \dfrac{2 \pi}{T} \right)^2 = 0.0027 \mathrm{m/s^2}}$$と見積もられる。重力加速度$${9.8 \mathrm{m/s^2}}$$は、この約3600倍で、60の二乗に近い。
力と加速度が比例することを認めれば、重力の逆二乗則が予想される。これは、ニュートンのプリンキピアに書いてある概算。勿論、これは単なる試算で、誰も実証だとは考えないが、逆二乗則の追求を鼓舞するには足りる。
惑星の場合も同様で、近似的に、角速度$${\omega}$$で半径$${R}$$の円運動をしていて、向心力は、太陽から受ける重力と等しいとすれば(現代的理解では)
$${R \omega^2 = \dfrac{G M_{sun}}{R^2}}$$
となる。公転周期$${T=\dfrac{2 \pi}{\omega}}$$だから、$${T^2}$$と$${R^3}$$が比例することになる。これは、ケプラーの第三法則で、円運動の場合、ケプラーの第三法則と重力の逆二乗則が同値であることは容易に分かる。ここまで来れば、楕円運動の場合も、ケプラーの第三法則と逆二乗則の等価性は維持されるのかというのは、当然の疑問となる。
こうして、観測結果から逆二乗則が導かれるが、ニュートンも、重力の原因は説明しなかった。従って、逆二乗則は単純ではあるけど、その成立理由は分からない。尤も、慣性の法則や作用反作用の法則も、同じことではあるが。逆二乗則が、十分に良い法則でないという可能性は、その後も時々議論されることになった。
逆二乗則で十分かどうかは、天体の運動計算精度が十分かどうかにかかっていて、特に、月の軌道計算が問題とされた。ニュートンも、この問題に取り組んだが、解決できなかった。18世紀には、ダランベール、オイラー、クレローなど大陸の数学者たちが、この計算に取り組んだ。
一時は、計算法の稚拙さによって、測定結果と計算結果に無視できない差があると考えられたこともあった。最終的には、計算法の改善によって、検出できるほどの誤差はないと結論付けられた。18世紀の半ば1750年頃のことだった。
18世紀には、天文学も力学も、まだ"数学"の一分野と見なされていた。physicsの原語である"自然学"は、自然現象の原因を考える哲学的な分野であって、"数学"の方法と異なっていた。標語的には、whyを考えるのが"自然学"で、howを考えるのが"数学"という感じ。自然哲学と呼ぶ時は、定性的な諸分野も含んでいた。19世紀には、physicsは、"数学"の一部を取り出して定性的自然科学の一部と混合することで"現代物理"になり、mathematicsは、残った純粋数学に限定されて、"現代数学"になった。
数学者は、数値計算を自分たちの仕事とは考えなくなっていった。物理学者たちも、天体の軌道計算を、単なる古典力学の応用であって、深遠でもなければ、本質的でもない計算技術上の問題と考えるようになったのかもしれない。惑星や衛星の軌道計算のようなものは、高名な物理学者が取り上げる類のものではなくなっていったように見える。
測量術あるいは測地学なんかも、似たところがある。今では、無料で高品質の地図が入手できるけど、本来、精密な地図作成には、膨大な計算と測定がいる。19世紀初頭には、測量に関わる計算は、まだ"数学者"の領分だった。ガウスも、測量関係のアドバイスをしているし、ベッセル楕円体は、19世紀ドイツの数学者ベッセルに由来する。
19世紀にも、そして20世紀になっても、月の軌道計算は、自明なテーマにはならなかった。George Hill(1838〜1914)やErnst Brown(1866〜1938)の名前は、Hill-Brown theoryとして残っている。コンピュータが進歩した現在、月の軌道計算が、どうなってるのかは知らない。