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「無宗教の私」の宗教論

無宗教なのに、「神様がいると思う人」と聞かれると迷わず手を挙げる私。
「意味分からない」という声が聞こえるので簡単にお話します。

「神の存在を信じる人の心の中に神は存在する」が私の認識。
私の心の中に神は存在していない、だから私は無宗教なのです。

それなら、「なぜ心の中に神が存在しないのか」聞きたいですか?

仏陀もキリストもマホメットも、偉大な「神のお使い」だったと思います。 それぞれ、弟子の中で一番優れた人が後を継ぐことが綿々と受け継がれて来たのでしょう。
しかし、後の世に弟子がした事の中に、一向宗徒に念仏を唱えながら武士の刀の下に突入させ、意味不明の十字軍を出撃させ、ジハードなる聖戦をしかける。 今なお、宗教間のみならず、同じ宗教内での覇権争い・殺し合い。

神様のお使いから授かった宗教なのに、後継者達が「欲」(=人間の本質?)をむき出しにする事が必然的に起きているのでは?

だから私は無宗教。 神は存在するが、宗教を伝える生身の人間を信じない、と言う訳です。
ご理解頂けましたでしょうか。

1人だけ、例外かも知れないと思う人を、最近見つけました。
空海(弘法大師)です。
生誕1251年の今なお、高野山 奥の院の霊廟で禅定を続けている(毎日お食事を供する儀式も続いている)と伝えられる事の意味を考えました。 「空海の目(欲を持たない目)で物事を捉えること」が続けられているのだと、私は感じます。
戦国時代、高野山(真言宗の本山)が秀吉などに攻められた時、応其(別名  木食上人)が命を顧みずに奔走して話し合い 平和裏に収めた、とのことです。 その数年前に、最澄(伝教大師)の比叡山延暦寺は最後まで戦い全滅しています。

高野山の中心である奥の院の入り口から本殿までは広大な墓地になっていて、真言宗以外の仏教宗派だけでなく、他の宗教のお墓もありました。
多くの武将や歴史上の人物・歴代天皇なども分骨して入っているのです。
また空海は、大日如来は天照大神の妹、と位置付けることにより  1200年も前に神仏合体を唱えていた、と地元のガイドさんから聞きました。 そのガイドさんは、奥の院の一番奥で「出来るだけ、大勢の人のために・沢山のことを・時間を使って  お願いしましょう」とたっぷり時間を取ってくれました。
空海の心の広さを感じました。

空海と真言宗について調べ始めた私です。

トップの画像は、昨年(空海の生誕1250年)高野山を初訪問をした際にGETした、50年に一度しか出さない  という金属製の万能お守りです。
(安全・勉強・仕事・商売・お金・安産・子孫・・・何でもOKという心の広いお守りです)

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