二重語法が真実味を生むんじゃないかという話

基本的に紙媒体で本を読みません。ほぼ電子書籍で読んでいます。買いに行くのが面倒ですし、スペースもとりません。1週間で5冊はダウンロードしている位には電子書籍信奉派に属している僕なんですが、なんとなく哲学者の千葉雅也さんの本は買うことが多いです。一番最初に読んだのが「うごきすぎてはいけない」だったと思います。その後「勉強の哲学」「意味の無い無意味」と続けて読んで、最近になって「デッドライン」を読んでいます。
彼の(タイトルになっている文言で恐縮なのですが)言葉で好きなのが「意味の無い無意味」、作中でも言及していますが二重語法ですよね。矛盾した2つの意味の言葉をひとつで表すものです。
僕は起きている間中あらゆるものが気になる質です。緑茶粉末でテアニンは摂れるのか、プロティンの飲みすぎは腎臓に負担がかからないのか、自転車で逆走するおばさんは何を考えて生きているのか等々。臆病ともいえますね。
あくまで自分が気になったものという限定ですが、物事の意味を問いたいおじさんなんですね。面倒です。中々納得しません。そんな強情おじさんで毎日を過ごしていて、とある法則に気づきます。僕が納得する言葉は、得てして二重語法で表現されている!
「不完全性が完全」「意味の無い無意味」もそうですし、多分僕の中では「われ思うゆえにわれあり」も同じジャンルでくくれる気がします。
じゃあなぜ納得できるのか、考えてみました。二重話法はぐるぐると巡った思考の証だからです。きっと伝わらないと思います。説明します。人が物事の意味を理解したり納得するのには何らかの社会的な強制力が働いていることがままあると思います。〇〇さんが言ったから信用できるよね、や、経験に基づいてAのやり方でやったらBの結果が出た、も納得がいくし信用ができますよね。その納得に至る判断基準が僕の場合、思考を巡らせたのかどうかになっています。伝わりますか?
「Aさんが言ってた〇〇はいいよ~」よりも、「美味しいは美味しくない」みたいに、思考しすぎた結果、矛盾の境地に達した概念の方が真実実があると感じてしまうんです。これ読んで共感できる人はいるのでしょうか。もう少し続きます。
その矛盾の境地と大仰に書きましたが、簡単な話です。理解や納得ポイント=思考を止めるポイントで、そのポイントがどこにあるか個人差の話です。僕の場合、思考停止ポイントが矛盾した表現で現れやすいです。読むと、頭がぐるぐるしだしてぼぉーっとします。その状態は脳が疲れてしまうので、やめたいと思うので納得したことにします。これが一連の流れです。
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