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【第13回】独立するものの...

独立の前に、経緯を少しばかり。
2年で独立することは決めていたが、やはり少しは悩んだ。

転職活動なども一応はやってみた。その中の1社、音楽制作事務所のアートディレクターの職に受かったのだが、独立⇄転職で俺の心は揺らいでいた。
当時インディーズレーベルの仕事をしていた先の音楽出版の会社の方に相談をしたところ、どうもその音楽制作事務所はヤ○ザ絡みであまりいい印象ではなかった。

ここでエイヤーとそこに飛び込むか、それとも独立か。
最後の頼みは、そう「占い」。当たるも八卦、あたらぬも八卦だ。

その日、3軒ハシゴして占ってもらった。結果は3軒とも「独立」。

そうなるともう心は決まった。(自分で決めろよという声が聞こえてきそうですが....)独立を決意した。

さて、じゃぁどんなデザインで食っていくのか。

幸い、出版業界に潜り込んでいた友人たちがけっこういた。しかし、エディトリアルデザイン(雑誌や冊子などのデザイン)はCDと違って少々複雑なテクニックを要する。簡単にいうと設計に近い。しかも、「早い、安い、キツい」と三拍子揃った業界だった。正直、躊躇した。

しかし、独立は決めたのだから何か軸になるデザインで食っていかねばならない。
やるしかなかった。

デザイン事務所に所属していた頃に、独立の足掛かりをと思って、編集の友人Kを頼ってある編集部を紹介してもらった。その当時、流行っていたギャル雑誌の編集部だ。

前述したとおり、右も左も、級数や指定もまだよくわかっていなかったので2ページの制作で1週間という寝ぼけたことを虚勢を張りながら言ってしまうことになる。理想だけは空まで高かったのだが、いかんせん技術がなかった。
見様見真似で海外の雑誌を参考にして作っていた。

担当の編集の人にはそのダメっぷりがバレていたわけで、出版社の会議室で自分の作ったレイアウトをコピーして切って貼って、デザインの直しを居残りでやる日々だった。その当時の編集の人には本当に感謝してます。(御礼)

そんなこんなで晴れて(?)独立を果たし、恵比寿のワンルームを借りてWORLD STANDARDと威勢のいい名前で始まった。

しかし、レギュラー仕事のない俺は、編集を辞めてライターになったK(これまたあんまり仕事がない)とぼーっとする日が続いた。たまにくる単発仕事で食いつなぎながら、俺とKは恵比寿のマンションで「信長の野望」(コーエーの戦国シュミレーションゲーム)をひたすらやるという日課をこなしていた。

家は別にあったのだが、仕事場は別にしたかったので、家賃8万のワンルームを借りた。しかし月の収入は10万ちょっと。ハミ出た分は、親から仕送りをしてもらうというダメっぷりだった。友人のライターも仕事の合間に皿洗いのアルバイトをしていた。

朝来て、ゲームして、昼ドラを観て、夜はその当時やっていた、赤井英和と雛形あきこのドラマ「略奪愛・アブナイ女」を1話から最終話まで完全制覇。そのルーティンの合間に仕事を少々という有様だった。

今思えばゲンコツを喰らわしたくなるが、二人とも「営業」ということも一切やっていなかった。人と会うのがめんどくさかったというのもある。

とにかくダラダラと完全にニートだった。まぁ食えないワケである。

バリバリ仕事しているカメラマンの友人Mが撮影終わりに寄ってくれて、ご飯を奢ってもらったり、彼の仕事が1日空いた日は車で、江ノ島の海へ行き釣竿を買ってもらって釣りに行ったりもした。

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おそらく、27歳は俺の人生の中で一番ダメでダラダラしている時期だったと思う。

しまいには、一回も出たことのないベランダに鳩が巣を作って卵を生んでいた...。

そんなニートな1年続けたある日、カメラマンの友人のMに、
「こんなとこいたら、ダメになるよ!引っ越さなきゃダメ」とお叱りを受けた。

手を引っ張られるように、代々木の不動産屋に向かい、代々木の月5万8千円のボロアパートを俺とK、そしてカメラマンのMで借りることになった。

そこからいままでのニートな生活の流れが急に変わっていったのだった。

(つづく)



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