たった一杯のお茶がもつ効果が大きすぎる


用意されたお茶には
「存在を認める」
っていう絶大なる力があると思う。


簡単にいうと
「あ、私ここにいていいんだ。」
って感じ。

家に帰ってきたとき
お茶が出るだけで
ホッとするんじゃないかな。

仕事にくたびれてても、
学校で悲しいことがあっても、
失敗してしょげてても
お茶が出てくるだけで
そんな状態でも別にいいよって
肯定されてるみたいで
安心するんじゃないかな。

お茶だけ出してあげたら
多分だけど、今日あったこと
ほとんど何にも質問しなくていいかもしれない。
ホッとして話さずにすむかもしれないし
ホッとして話し始めるかもしれない。
とにかくホッとすればよし。

別に麦茶とかでいいし、
その場にいることができなかったら
コップに入れてラップでもかけておけばいい。

飲んでも飲まなくてもいい。
楽しくてお茶どころじゃない時もあるからね。
用意していることが肝心。

道端のお地蔵さんの前や、
ご先祖が眠るお墓の前に
湯呑みがあったり
神棚の水を毎日取り替えたり
するのって
そういうことじゃないかな。

訪問先の会社とかで
お茶出してもらえるのも
飲食店でお水だしてもらえるのも
本当はそういう意味だよね。

当たり前みたいに思ってるけど
時と場合によっては
ものすごく嬉しいことなんじゃないかな。

こないだ車屋さんに行ったんだけれども、機械でボタン押して好きな飲み物飲んでいいスタイルだった。

「どうせだったら好みのものを飲んでいただきたい。」
という親切と
「お茶出すって仕事なのか?」
という西洋からやってきたビジネススタイルでうまれた躊躇と
あとこれは憶測だけど
「お茶出しは女子の仕事ってはもう古い考えだけど、まだ男子の入れたお茶って抵抗があるわ。」
みたいな葛藤(令和の世にはなさそうだなぁ。)からうまれた
新しいスタイルだよね。
(まぁ新しいっていってもずいぶんなるんだけど笑)

うちなんか子どもが喜んじゃってもう大変。

それから会議の前にペットボトルのお茶を配るとかも新しいスタイル。
(昔は大量の湯呑みを用意したんだよう!ちょうどいいタイミングでお茶を出したいから人数の集まり具合を偵察に行ったりとか。紙コップに変わるだけで大進化だった。)

「お茶を出す」って習慣は姿形をかえてちゃんと残ってるな。

実は凄いことだってみんな知っているんだね。



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