自分自身に無意識でいることの恐ろしさ
今日は、自分自身に無意識でいることに恐ろしさを感じた理由について、自分の経験を踏まえて書いてみようと思います。
事例その1
中学校の合唱コンクールのときのことでした。
合唱コンクールでは各クラスが同じ課題曲を全校生徒の前で歌います。
その年の課題曲は「ポーリュシカ・ポーレ」。
緑燃える草原を越えて~♪
…
二人頃愛は芽生えて
明日へと続くのさ~♪
歌い終わって自分の席に着くと、次のクラスの「ポーリュシカ・ポーレ」の前奏が耳に入ってきました。
すると、
「緑燃える草原を越えて~♪」
興奮が冷めやらぬ私は観客席で一緒に歌っていました。
事例その2
高校受験を控えた、模擬試験を受ける日の朝でした。
早朝に友達が迎えに来て、寝坊した私はあわてて身支度をして駅で電車を待っていると、見知らぬ男の人が近づいてきました。
「知らない男の人には気をつけなさい」と母親に言われて育ち、親と学校の先生以外の大人をほとんど知らなかった私は瞬時に身構えました。
すると、その人はズボンのチャックの閉め忘れを教えてくれただけでした。
私は「動物人間」?
「覚醒のヨーガ」に出会う前は、この話を単なる受け狙いでしていました。
けれども、先生の元でヨーガを学ぶようになってからこれらの話を思い出したとき、「これは単なる笑い話ではないかも」という考えが浮かんできました。
歌の前奏を聞いて、歌うべきシーンでないのに無意識的、自動的に歌う。
知らない男の人が近づいてきたのを見て、無意識的、自動的に親の言いつけが頭に浮かんで次の行動に備える。
そんな私はまるで「パブロフの犬」※ のようだし、危険を感じて逃げるか攻撃する動物のようだと思いました。
※ ロシアの科学者パブロフがベルを鳴らして犬に餌を与えることを繰り返すと、犬はベルの音を聞くだけで唾液を出すようになったことから、パブロフの犬は条件反射の代名詞となっています。
自分自身に無意識でいることの恐ろしさ
過去の記憶や経験から瞬時に想像し、理解し、判断し、行動することは、生きて行くのに必要で、私たちにはそれができるための機能が備わっています。
しかし、その機能を無意識的に、自動的に発動させてしまうと「動物人間」になってしまうのだと自分の経験から知りました。
他愛のない話ならいざ知らず、それが人生の大事な場面や仕事で動物のように反応したら?
・職場で経験のないことに遭遇したとたんに「そんな事、知らない!やったことない!」と怒る。
・気に食わないことに対して無意識で舌打ちをしたり貧乏ゆすりをする。
・人の何気ない言葉に勝手に過剰に反応して悪い想像を膨らませ、相手にひどい言葉を投げ掛けたり、手を出す。 etc.
このように自分の体や感情、思考に無意識な状態で外界のできごとに衝動的に反応すると、望みもしない結果を自ら招くであろうことは容易に想像できます。
そう考えると、自分自身に無意識でいることに恐ろしさを感じました。