「私」はどこにいるのか?
眼前に景色が広がる。机の上のマグカップからはいれたてのコーヒーの湯気が立ち、本は乱雑に置かれ、パソコンのディスプレイが白い光を放っている。窓の外にはまぶしい日が差し、街路樹のさるすべりは赤や白の花を咲かせている。でも、私はそこにはいない。しいて言うなら、常に「私が」見ている。でも「私が」であって、私そのものはそこにはいない。
キーを叩く指が見える、肩に重さを感じる。頭痛がある。今日あまり気分がよくない。これらは常に「私の」ものだ。私の身体、私の感覚、私の気持ち。でも「私の」であって、私そのものはそこにはいない。
私はどこにいるのか?目に見えず、心でも感じられるものでもない。常に現れてはいるが、おまけのような形でしか現れてこない。
だから、実は私などいないのだ、と言ってしまうのは簡単である。だが、痕跡は確実にこの世界に存在しているではないか。でも、私はいったいどこにいるのか?
もちろん「どこ」というのは比喩である。知覚される風景や内観される感覚や感情がそれぞれどこにあるのかについては諸説あるだろうが、いずれにせよ何かしらの「場所」を持っている。それが心の中であろうが、物理的空間であろうが。私そのものはそれらに付与されている形でしか存在していない。だから、あらゆる「場所」に私そのものは、いない。誰にも私そのものを取り出して見せることはできない。なぜそれができないのか。当たり前に存在していると思った私そのものは、実は思うほど当たり前には存在してない特殊な存在者なのだ。
私はどこにいるのか?――どこにでもいるし、どこにもいない。
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