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「私」はどこにいるのか?⑤

 前回の続き。

主体としての「私」が認識されることは、まったくあり得ないということがわかった。

私の脳とされるものも、「私の」脳であるだけで、主体としての「私」ではない。開頭して鏡で自分の脳を眺めていたとしても、主体としての「私」の地位を、鏡に映る脳に譲らなければいけない必然性はない(そういった説を唱えることは可能であるが)。では、それをもって、「私」は存在しないとまでいえるだろうか。

絶対に誰にも認識されないものであっても、存在すると信じることは可能である。もちろん、その信念が認識をもって正当化されることはありえない。この世に顕現しない神が存在することや、実は5分前に世界が創造されたことも、信じることはできる。「私」が存在することも、実は同じ種類の話なのだ。

いや、ここまで身近なのにおかしいではないか!と思う人も多いだろう。だが、哲学の文脈を離れたとしても、認識の主体としての「私」は、実はあまり重要視されていない。

例えば、社会においてはその人が「誰」であるかがとりわけ重要である。他人がその人を「誰」だと思うかは、その人の身体や性格や記憶を含めたふるまいである。また、自分自身が「誰」であるかの確信をもてるのは大半は記憶によるものであり、あるいは周囲の環境(例えば、他人の証言や自分の日記や自分の身体が写り込んだ映像)との整合性をもって、自分が「誰」であるかに確信をもつだろう。こうした機能的な面に目を向ければ、自分自身にとってさえも、主体としての「私」は不要である。いや、「私」という言葉はよく使われるのだから、不要であるとは思えないかもしれない。だが、よく使われる「私」という言葉は、あくまで、その言葉を発している身体や、その身体に付随する知覚、感情、気持ちなどを代名詞として指し示しているのであって、主体としての「私」ではない。

主体としての「私」は、今見えるこの風景や心象に対する認識を成り立たせている非常に重要なものであるはずなのだが、その存在を確認することはできないのである。流通している「私」という語も、「私の」何かや、「私」が感じている何かを指すものでしかない。それらは決して主体としての「私」ではないのである。

それでも主体としての「私」の存在を信じるとして、その信じた「私」はいったいどこにあるのか?私たちが認識できない遠いどこかにあるのか?それとも、手が届くような世界の内側にあるのか?

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