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「私」はどこにいるのか?⑥
https://note.com/ro_do_sha/n/n78f1f5d68859 前回の続き。 主体としての「私」の存在を信じるとして、その信じた「私」はいったいどこにあるのか?私たちが認識できない…
「私」はどこにいるのか?②
https://note.com/ro_do_sha/n/ncb605a21eed4 前回の続き。 見えるものはいつも「私が」見ているし、感じられるものいつも「私の」ものだ。だけど、私そのものはどこにも…
【所感】飯田隆「言語とメタ言語」
以前書いたnote「【読解】飯田隆「言語とは何か?」」では未読だった、飯田の「言語とメタ言語」という論文を、まずは流して読んだ。訂正の意味を込めて本noteを書く。
「言語とメタ言語」では、「「言語の外に立つ」ことはできないが、「言語の外には出られる」(『分析哲学これからとこれまで』148頁」)」という主張がなされていた。これは、世界(実在)の側を、人間(認識)が、正しく指し示すことができるのか?
【読解】飯田隆「言語とは何か?」
本noteは、『現代思想2024年1月号 特集=ビッグ・クエスチョン(青土社)』に所収された、飯田隆の「言語とは何か?」という論文の主張を検討したものである。本論文は、ウィトゲンシュタインの哲学的態度の変化を道標に「言語とは何か?」という問いについて考察している。
さて、「言語とは何か?」という問いは、特有のフラストレーションが伴う。概ね飯田は次のように言う。
では、飯田からしばし離れ、ウィトゲ
「私」はどこにいるのか?⑥
https://note.com/ro_do_sha/n/n78f1f5d68859
前回の続き。
主体としての「私」の存在を信じるとして、その信じた「私」はいったいどこにあるのか?私たちが認識できない遠いどこかにあるのか?それとも、手が届くような世界の内側にあるのか?
デカルトが脳の松果体のあたりに精神としての自我があると主張したのは有名な話である。だが、もちろん、松果体をいかに解剖しても
「私」はどこにいるのか?⑤
前回の続き。
主体としての「私」が認識されることは、まったくあり得ないということがわかった。
私の脳とされるものも、「私の」脳であるだけで、主体としての「私」ではない。開頭して鏡で自分の脳を眺めていたとしても、主体としての「私」の地位を、鏡に映る脳に譲らなければいけない必然性はない(そういった説を唱えることは可能であるが)。では、それをもって、「私」は存在しないとまでいえるだろうか。
絶対
「私」はどこにいるのか?④
前回の続き。
主体としての「私」があるとしたら、それは物理的空間にない以上、心の中にしかないのであった。さて、主体としての「私」を心の中で探し当てる術はあるのだろうか。
「私」が主体であるならば、感じられるものではなく、感じるものなのであった。だから、少なくとも自分自身で感じることはできないだろう。何かを感じていれば常に私は感じる側なのであり、感じられる側ではない。
また、物理的空間のように
「私」はどこにいるのか?③
前回の続き。
「私」はどこにいるのか?「私」は見る主体なのだから、見られるものではない。さらには、他人の目や鏡を使っても見られるものにはなり得ない。
となると、主体としての「私」は、まず物理的なものではない。脳でもなければ、身体のどこかでもない。だから、物理的な空間に位置していない。
では、心の中にあるのだろうか。もちろん、私の感覚や感情や思考などがあることは手に取るようにわかる。だが、私そ
「私」はどこにいるのか?②
https://note.com/ro_do_sha/n/ncb605a21eed4
前回の続き。
見えるものはいつも「私が」見ているし、感じられるものいつも「私の」ものだ。だけど、私そのものはどこにもいない。どこにいるのだろう?
ありえる答えとして「私は見るものであり、見られるものではないのだから、見るものとして現れないのは当然だ」というものだ。では、見る主体はどこにいるのだろう?それを確
「私」はどこにいるのか?
眼前に景色が広がる。机の上のマグカップからはいれたてのコーヒーの湯気が立ち、本は乱雑に置かれ、パソコンのディスプレイが白い光を放っている。窓の外にはまぶしい日が差し、街路樹のさるすべりは赤や白の花を咲かせている。でも、私はそこにはいない。しいて言うなら、常に「私が」見ている。でも「私が」であって、私そのものはそこにはいない。
キーを叩く指が見える、肩に重さを感じる。頭痛がある。今日あまり気分がよ
言葉はあらゆる営為に充満している
事実として、私たちの認識は常に言葉を伴う。言葉なき認識というものはおよそ存在しない。試みに、言葉の外で何かを理解しようとしたり、そのようなことが可能だと信じたとしても、言葉を抜きにして表明したり、内省したり、信じたりすることはできない。なぜなら、表明することも、内省することも、ひいては信じて独り言ちることさえも、言葉によってなされるからだ。認識とは私たちのあらゆる営為の総称である。「言葉の外側」と
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