プペルって実は「西野コミュニティの自爆の物語」だったのではないか?と思った話【ネタバレ注意】
先日、「えんとつ町のプペル」を映画館で観てきました。
ネットで賛否両論の意見を見たり、それが誰かに飛び火して炎上しているのを見たうえで、今は劇場版エヴァンゲリオンが延期になってしまって他に観たい映画もないし、一度観てみようかなーと思い立ってのことです。
映画を観て感じたことを、ネットのどこかに残してみたくなったので、このnoteを書いています。
※以下、映画の内容の最後までを含む完全なネタバレになりますので、未視聴の方はご注意ください。
※また、これはあくまでも個人の感想ですので、ご了承ください。
映画の良かった点
先に良かったと思う点を挙げてみます。
・映像作品としての完成度(STUDIO4℃の技術力)は良かった
・芦田愛菜ちゃんの演技は良かった(ただちょっと「お育ちの良さ」が出てしまって、貧乏少年っぽくない感じもした)
・藤森慎吾もハマり役っぽくて良かった
・原作の絵本にはない登場人物が追加され、その人たちにも物語があって、所々感動もした
見ていてわかった小ネタ
一度しか観ていないですが、気付いた小ネタです。
・「アントニオ」は最終的にルビッチに味方してくれるだろうと予想できた。なぜならアントニオの瞳の色が最初から綺麗な色で描かれているから。(他にも、ルビッチや父ブルーノなど、夢を信じている側の人間は「澄んだ瞳」の色で描かれていると思われる)
・町の統治者レター一族の肖像画、初代からだんだん街に煙突が増えていくに従って表情が病的に浮かない顔になっていく。今代のレター15世も、現在の町の在り方に疑問を持っていることが、おどおどとした視線の動きなどから表現されている。
・「スーさん」がプペルの部屋に現れた時、あまりに不穏で左半身を映さないので、ルビッチはその場で消されるのかと思った ⇒ そんなことなかった ⇒ ……と思ったけど、やっぱり内通者だった。
伏線などをわかりやすく丁寧に描いてくれていて、STUDIO4℃さんなのか監督の廣田裕介さんなのか脚本の西野さんなのか、良い仕事をされているなと思いました。(←偉そう)
個人的にイマイチだった点
ワンクッション置いて、ここからがマイナスな内容になります。笑
1)ルビッチとプペルがお互いを「友達」と認識し合うまでをもう少し丁寧に象徴的に描いて欲しかった。
(ルビッチがプペルを助けるまでの序盤のドタバタはインパクトはあったけど、多少冗長に感じたので、そこを二~三割ほど尺を削って代わりに二人の友情を描いても良かった気がする)
2)最後、プペルが「プペル」のままじゃなく「(ルビッチの)お父さん」として死んでしまった点。
(プペルには「ルビッチの友達」という人格のままでいて欲しかった。たとえば最後に星に戻るのではなく、星の欠片がもう一度集まって「ルビッチの親友・星屑人間のプペル」としてルビッチの傍に戻って来ても良かったと思う。ジブリやディズニー風ならそんな物語になりそうな気がする……)
3)物語全体を振り返ってみると、これは「西野コミュニティから出た異端児(ルビッチ)が西野コミュニティ(えんとつ町)を破壊するだけの、壮大な自滅の物語だったのではないか?」という想いが拭えなかった点。
問題点をもう少し具体的に書くと
私は、登場人物を以下の象徴と捉えました。
・“腐るお金”『L』を開発したシルビオ・レター
⇒ 西野亮廣(実際、西野さんのコミュニティではこれを真似した「レターポット」という疑似通貨を作っている)
・黒い煙に覆われて外界から隔離された「えんとつ町」
⇒ 西野さんのコミュニティ
・えんとつ町の異端児「ルビッチ」
⇒ 西野さんコミュニティの闇を掃う内部の異端児
そもそも「えんとつ町」が世間から隔離されているのは、レターさんの意思を継ぐ者が独自の貨幣経済圏・閉鎖的なコミュニティを作ろうとしたからであって。
それによって被害を受けているのは町の人たち。(真実を隠蔽されているだけでなく、ルビッチのお母さんは煙のせいで喘息にもなっている)
支配者(レター)一族とその周囲の白装束の人達は、自分の地位と権力を守るために住民を監視している。
これが異端児ルビッチの活躍により、煙は払われて外界との交流が復活する。
映画では後日談は語られていませんが、
腐るお金『L』は再び外界の『普通の腐らない通貨』へと戻り、
統治者レターや白装束の人達はそれまでの地位を失うことでしょう。
ここで注意しなければならないのは、腐る通貨『L』を作った統治者達は利益を独占できる状態であること。
『L』を発行できるのはレター一族だったのだから、250年前に『L』を発行した際、レター一族は住民から『普通の通貨』をもらって貯め込むことができたはずです。
(そして『普通の通貨』は腐らないので、レター一族は今もその資産を持ち続けて貯金しておくことができる)
町が解放されて困るのは、えんとつ町の住人。彼らは町の中でしか使えない『腐るお金』しか持っていないので、外界と取引するときに『一文無し』と同じ状態になってしまう。(※)
……これ、言い換えると「西野コミュニティでしか使えないレターをたくさん溜め込んだ人間が、コミュニティの外に出た時にどうなるか」と全く同じ現象なんですよね。
そして西野さんを始めとする胴元側の人間は、レター交換時に得た「現金」を持っているので、後にも先にも何も困らないという……。
↓この方の言っていることと同じです。恐ろしいですね(><)
※)そう考えると、解放される前も後も被害者であり続ける住人(コミュニティに囲われた信者の方)は不幸ですね……。まぁ、えんとつ町の場合は、地下にあったオパール等を売りさばけば外貨を稼げるのかな? 統治者がそれを独占せず解放してくれればの話ですが……。
まとめと補足
こんな感じで、つらつらと書きたいことを書いてきてしまいましたが、以上のことは全て私が映画を観て想像した「空想」であり「妄想」なので、気に障る方がいらっしゃいましたら申し訳ありません。m(_ _)m
また、「えんとつ町のプペル」は「製作総指揮・脚本・原作:西野亮廣」ということが大々的にフィーチャーされていますが、
映画のクレジットでは「吉本興業」が最後にでかでかと載っていました。
あたかも「西野亮廣」さんが独力で創り上げたかのような持ち上げられかたをしていますが、「吉本興業」という大きな会社の力がなければ、STUDIO4℃に映像を制作してもらうことも、有名人を声優として起用することも、大々的な宣伝やキャンペーンを打つこともできなかったのではないでしょうか。
(良い悪いではなく、あくまで企業の存在を忘れてはいけないという意味で)
なお、このnoteのタイトルに掲げた”プペルって実は「西野コミュニティの自爆の物語」だったのではないか?”というのは、多少過激な表現かと思いつつも、あえて使ってみました。笑 (この記事が誰かに届くことを願って……)
決して西野さんやそのコミュニティをバカにしている訳ではありません。あくまで一般人が第三者視点で見たときに感じたことを書いてみました。
結果が吉凶どうであれ、夢を持って行動することは良いことだと思います。何事も「経験」にはなりますから……。
この映画を観て私と同じような感想を持った方、逆に違う見方や反対意見がある方も、ぜひご自由にコメントなど残していっていただければと思います。
それでは(^-^)/
P.S. noteを投稿するのはこれが初めてなので、不慣れで作法などがよくわかっていなかったらすみませんm(_ _)m