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恋愛しない。

前回、『人生の転機』をテーマに書いたとき、自分のセクシュアリティについて触れた。今回は、そこを掘り下げて書いてみようと思う。

noteという環境で発信すること

突然だが、4月にnoteを始めて、自分の投稿頻度は少ないけれど、ほぼ毎日誰かの記事を読んでいる。

TwitterやInstagramをやっていないこともあり、プロではない、知らない誰かの書く文章に触れる日々は新鮮だ。そして驚くべきことに、みんな文章を書くのがうまい。書くのが好きだ、書きたい、という気持ちもすごく伝わってくる。

ちなみに、スキの制度にはまだ慣れない。SNSには付き物なのだろうけど。これは相手の為にあるものなのか、自分の為にあるものなのか、よく分からない。

私は、めちゃめちゃ広い都会の本屋さんだと本を買う気がなくなるタイプなので、スキに関しても、本当に何度も読み返したいと思える記事に絞るよう意識している。つまり、今のところ、自分の為に使っている。受け手としては、誰かにリアクションされることがまだちょっと怖くもある。

なぜこんな話をしたかというと、今回、ここで自分のセクシュアリティについて詳細に書くことに不安を感じたからだ。

noteに限ったことではないかもしれないが、自分のアイデンティティ的な、特定のテーマを持っている投稿者が多いように感じる。すべてでなくとも、記事の多くに共通性がある。例えば、20代女子ならではの悩みだったり、読書に関することだったり、漫画だったり、「私はこういうことを書く人です」というのがはっきりしている方が多い気がする。

セクシュアルマイノリティに関しては、関心のある方は検索してでも読みたいテーマだろうけど、関心のない方は「うっ」となることもあると思う。今後このテーマに絞っていく覚悟があるわけでもないので、そんな私がこの世界で書いていいものなのか、正直悩んだ。

でも、noteを始める前にぼんやり考えていた”書いてみたいこと”には確実に含まれていたテーマだった。自分のセクシュアリティを言語化してみたい。その気持ちを一番大切にしようと、思い切って文章にしてみることにした。

自分のセクシュアリティについて

私には恋愛感情が存在しない。

『アロマンティック・アセクシュアル』というセクシュアリティであると、私は自認している。日本語だと『無性愛者』。分かりやすくなるはずが、日本語の場合、字面だけだと誤解されやすい。

図書館で本を読んだりネットで調べたりした。それでも、自分の言葉で説明できるかと聞かれると、そこまで詳しく理解できている自信はない。基本的なところは次のように定義されている。

◆アセクシュアル・・・他者に対して性的魅力を感じない
◆アロマンティック・・・他者に対して恋愛感情を抱かない
※日本では「他者に恋愛感情を抱かない」という意味も込めてアセクシュアルと表現する場面が多く、「他人に恋愛感情を抱くものの性的魅力を感じない」人はノンセクシュアルと言われます。
(参考:株式会社JobRainbowホームページ)

『無性愛者』と聞くと、上で言うノンセクシュアルをイメージしがちだが、そちらは『非性愛者』と言うらしい。あと、無という字のせいで、家族愛や友愛もない、愛情をまったく抱かない人だと誤解されることもあるけれど、そんなことはない。うーん、日本語難しいね。

ちなみに、自認のきっかけは以前書いたので割愛するが、下の記事の後半にあるので、もし気になる稀有な方がいらっしゃれば。

異性愛者でも恋愛に対する感覚(重要度、依存度、恋愛ソングへの共感度、性的欲求の強さなど)が人それぞれ少しずつ違うように、アセクシュアルも微妙に感覚が違う。周囲にアセクシュアルを公表している人がいないので比較対象はnoteやYouTubeをされている方々になるのだが、まったく感覚が同じ、ということはたぶんない。

ここからは、私自身の経験や考え方のお話(以下、※の記載に則り、自分のセクシュアリティは『アセクシュアル』だけで表現していきます)。

女の子扱いされることへの嫌悪感

小2のとき、髪をショートカットにし、スカートやピンクは絶対に選ばなくなった。性自認は完全に女性(女性は同性、男性は異性だとはっきり感じます)で、女子同士で遊ぶ方が圧倒的に多いし気楽だが、女の子の概念を押し付けられることには昔から嫌悪感があった。

小5だったと思うが、一度友達から無理やりマニキュアを塗られそうになったとき、腕を叩くくらいの勢いで拒否をした。小学校の卒業式では、中学の制服を着るという伝統(というか暗黙のルール)があったのだが、スカートが嫌すぎて学年で唯一パンツスーツで登校した。

女性であることが嫌なわけではなく、性別の違いによって言動に変化を出したり出されたりという文化・考え方が嫌なのだ。

これについては、アセクシュアル由来のものではない気がする。ただ、偏見かもしれないが、異性との恋愛では多少なりとも女性扱いされる側面があるように思うので、そういった点では、セクシュアリティに関わらずそもそも私には男女交際は向いていないと言えるかもしれない。

忘れられない、”気持ち悪い”の感覚

アセクシュアルの存在を知ったのは昨年なので、24年間は自分は異性愛者もしくは両性愛者だと思っていた。恋愛感情を抱いたことはなかったが、いつかは誰かを好きになるものだと信じて疑わなかった。そもそも、恋愛感情がない、というセクシュアリティがあるなんて想像もしていなかった。

でも、アセクシュアルだと自認した今思い返すと「あれ、そういうことだったのかな」という経験がいくつかある。一番忘れられないのが、高校1年生のとき。付き合っていたクラスメイトの男子との初デートだ。

少人数クラスだったこともあり、私のことを好きだという噂は告白される前に本人にも届いた。もともと仲が良く、いい子なのはよく知っている。15歳。自分に自信が持てず、「誰かに存在を認められたい」と願う多感な時期。人生で初めて告白をされ、受け入れた。

このとき、私は彼をどんな存在だと認識していたか。あえてはっきり言おう。「好きな人」ではなく、「自分を肯定してくれる味方」だ。当時ははっきりと自覚していなかった(たぶん好きだと思い込もうとしていた)が、それは自分を好きでいてくれる相手に対して、本当に失礼かつ残酷な向き合い方だったと、今とてつもなく反省をしている。

初デートの話だが、結論から言うと、行けなかった。当日の朝、ドタキャンをしてしまったのだ。

付き合う前は、二人で楽しく出かけたこともあったし、部活が一緒だったので学校でもよく話した。でも、恋人関係になってから明らかに優しくされていると感じる瞬間が増えて、そのことにストレスを感じるようになった。

抱きしめられたりキスされたりといった、分かりやすいスキンシップをされたわけではない。扉を通るときにレディーファーストしてくれたり、メールで「かわいいよ」と言ってくれたり、その程度のことだ。その程度のことなのに、嫌だと感じた。友達同士のときはそんなんせんかったやん。なんで急にそんなことすんの?ともやもやしていた。

さらに、そのことがプレッシャーにもなっていた。付き合っている以上、私も同じように相手に返さなくてはならない、拒否してはいけない。彼女なんだから、多少は女の子らしさを誇張した方が嬉しいだろうか、と見当違いなことも考えたりした。

それが爆発したのが前日の夜だ。高1の公園デート。清く爽やかな付き合いだったし、おそらくキスまでも行かないことは分かっていた。でも、たぶん手は繋ぐだろうな、「好きだよ」とか言われるんだろうな、帰ったら親から「どうだった?」とか聞かれるんだろうな、とか想像しただけで気持ち悪くなって吐き気がしてきた。今考えると、これがアセクシュアルとしての感覚だったと思う。

具体的なことは隠したまま「明日行きたくないかも」と母にこぼした。あまり覚えていないが、「前日に何言ってんの、行ったらきっと楽しいよ」というような返しをされたと思う。楽しめるかどうかが不安、という話ではなかったのだが、一日だけ頑張ろう、とそれ以上言うのはやめた。

一日だけ頑張ると決めたはずなのに、朝起きると、なんだかよく分からないけど本当に無理だとはっきり感じた。これも相手に大変失礼なのだが、とても電話で話せる気持ちになれず、メールで行けないことを伝えた。気持ち悪さに彼への申し訳なさも相まって、私が泣くことじゃないとは思いつつ、苦しくて号泣してしまった。

分かったという返事を受けてから、母にドタキャンしたことを報告した。涙ながらにきちんと叱ってくれた。相手の想いをないがしろにする行為であること、大切にしてくれる人に対しては真摯に向き合うべきだということ。母の言う通り、私は自分のことばかりで、相手がどんな気持ちになるか考えられていなかったな、と深く反省した。

一点ご注意いただきたいのが、この出来事を取り上げた意図として、今思えばあの”気持ち悪い”という感覚こそアセクシュアルならではだと伝えたいからであって、母から叱られた内容(相手を軽んじている・真摯に向き合っていない)については私個人の至らなさによるものだ。

アセクシュアルはそういう人間だ、アセクシュアルはそういう姿勢でも許容されるべきだ、という意図では決してないし、そんなことは断じてないので、誤解しないでいただきたい。

鈍感なだけだと思っていた

「君のこと、好きらしいよ」周りに言われるまで好意を向けられていることに気づかない。どれだけアプローチをされていたとしても。

別に容姿も整っていないし性格もどうしようもないやつ(少なくとも私は私みたいなタイプは好きではない)だが、こんな私を好いてくれた人が過去に2人いた。前述した高校のクラスメイトと、大学の同級生だ。

中高生というのは、噂も好きだし、恋愛事には特に過剰に反応するところがあってよくからかいのネタになる傾向にある。だから、周りから漏れ聞こえてくるのも自然な環境だと思う。

しかし、大学生は違う。中高生での経験を経て、ある程度大人になっている。相当精神年齢が低くない限り、茶化して噂を立てたりいじったりなんてせず、友達の片思いは陰ながら応援するか、それとなくフォローに回るかになってくる。

私は彼からの好意に気づけなかった。「入学間もない時期からずっと好きだって言ってるよ」と共通のコミュニティにいる友達が教えてくれたのだが、そのときすでに2回生の冬だった。1年半くらい気づかずに接していたことになる。週に2回は顔を合わせていたというのに。

茶化す感じではまったくなかったが、フォローの域も超えていた。私に直接伝えたのはたぶん、しびれを切らしたからなんじゃないかと思う。聞くと、男性陣の中では周知の事実だったらしく、女性陣の中にも、本人から直接相談された子や察していた子が結構いた。

「あのとき頑張ってアピールしてたと思うけどなぁ」「あんな分かりやすい行動、好きだからしてたに決まってるじゃん」と言われ、正直戸惑った。自分では思い当たる節がなく、例を挙げてもらってやっと「あれ、そういう理由(好きだから)だったんだ」と知った。

周りにいた友達何人もが察するような出来事もあったようだから、相当分かりやすく好意を表してくれてたのだと思う。でも私は気づけない。それがどんな結果をもたらすか。私が彼からの好意を分かった上で気づかないふりをしている、と周りに誤解されてしまうということだ。

ここで厄介なのは誤解されること自体ではなく、その後。本当に分かった上でスルーしているなら、少しバックステップを踏むなどしてこちらの意思を伝えようとするだろう。しかし私の場合、それに応えるべき状況であるということすら認識できていないので、距離感を変えることがない。結果、好意に応えるわけでもないのに気を持たせるような態度をとり続けている、というふうに見えてしまう。相手の気持ちをもてあそんでいるようで感じが悪い、と思われても仕方がないかもしれない。

大学のときは、特定のコミュニティ内で仲の良い友達ばかりの環境だったのでそこまで思われずに済んだけれど、この先、もっと大きなコミュニティや関係の浅い方を含むコミュニティで同じことが起きたとき、私は人間性を疑われかねない。好いてくれたその人を、悩ませたり傷つけたりする可能性もある。

この経験もアセクシュアルを自認するまでは、ただ鈍感なだけだと思っていた。でも、好きの気持ちが分からない以上、好意を寄せる相手にどんな行動を取るものなのかも(ドラマや漫画での知識こそあれ)実感としては理解できないので、「好き」と明確に言われない限り好意に気づくのは難しい。アセクシュアルである以上、ずっと付き合っていかなくてはならない悩みなのだと思う。

同じものが返せないから、踏み出せない

私には今、ちょっと気になっている人がいる。面と向かって話したのは一回、少人数での食事の場だけで、あとは共通のコミュニティで一方的にお見掛けするだけなのだが、話し方や物事の見方にどことなく惹きつけられた。

人として好き、ということだ。

この表現、なぜか恋愛感情の下に位置されることが一般的になっているように思う。「人としては好きだけど、ごめん付き合えない」「人としては好きだけど、恋愛対象にはならないよね」とかよく聞くし。

アセクシュアルの私にとっては、人として好き、は愛情の最大値を示す表現だ。ただ、今書きながら、正直うまく説明はできないなと気づいた。いわゆる恋愛感情と違って、話すとどきどきするとか、その人と触れ合いたいとか、独り占めしたいとか、内から湧き出る強い思いがあるわけでもないし、家族愛や友愛との違いは何と聞かれると分からない。

一つはっきりしているのは、その人とどうなりたいという願望が持てないこと。

たぶん、もっと仲良くなれたら嬉しいし楽しい。でも、こちらから不用意に今の距離感を崩して、相手が私に好意を抱いたとしたら。それを想像すると怖い。自分から近づいたのに、私はそれに応えられない。同じものを返すことができない。それを知って、相手はどんな気持ちになるのだろう。

分かって読んでいただいているとは思うが一応言っておくと、あえて、相手が私に好意を抱くという思い上がった仮定をしている。これは、私に恋愛感情がないからといって、自分から行動する以上、相手の感情の変化について想像すらしないのは身勝手だと思うから。可能性の大小の問題ではない。

今も、そしてこれからも、私は自分から動くことはできないと思う。それをずるいと感じる方もいるかもしれない。逃げているだけだ、と。

私は一人で生きていきたいとは思わない、というかそんな決意ができるほど強くないから、誰かと一緒に生きていけたら、という思いはある。でも何より、自分のセクシュアリティで誰かを傷つけてしまうことが怖い。よって、それを叶える方法は今のところなさそうだ。んー、もっと強くて賢い人間にならないといけないかもなぁ。

アセクシュアルだと知れて良かった

なんだか内容が少し暗くなってしまった。それに、「ふーん」くらいで受け止めてもらえる記事にしたかったのに、ボリュームがすごい。ここまで読んで下さった方、本当にありがとうございます。

前向きな話をしよう。アセクシュアルを自認して一番良かったと思うのは、恋愛ひいては結婚をするのが当たり前、と考える必要はないのだと気づけたことだ。

ずっと、この先の人生を思い描くとき、義務でもなんでもないのに、恋をして結婚をして、の流れを無意識のうちに取り込んでいた。それって、とても窮屈なことだった。”本当にやりたいこと”を諦める理由を勝手に作ってしまっていた。

自分のセクシュアリティを自認したことで、苦しむこと・悩むこともいっぱいある。ここに書いてきたことに限らず。一方で、自由になった。アセクシュアルだと知って、自分をより理解できたからこそ、もっと自分の人生を大切にしてあげたいと思えた。世の中の当たり前とは違っても、できることはいっぱいある。

最後に

タイムリーなことに、自分がアセクシュアルだと知った少し後、セクシュアルマイノリティなどを描いたドラマがABEMAで配信された。しかも、主要登場人物の一人がアセクシュアルという設定だった。

アセクシュアルに触れられているシーンが、YouTubeに抜粋してアップされている。もしこの記事を読んで少しでも関心を持った方は、ぜひ見ていただきたい。

振り返って。思うように言葉にできないところもあり、まだ自分自身整理されていない部分があるのだなぁと感じたりもしたけれど、とりあえず達成感がすごい。言語化するって、体力がいるし難しいし本当に楽しいな。

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