#4-3 教員集団での信念のすり合わせや信念変容のプロセス【MAWARUリフレクション:千々布先生#3】
みなさんこんにちは。MAWARUリフレクション事務局です。
今回は、1月21日(土)に開催した、「リフレクションを対話的に再構成する~研究者と実践者でリフレクションを紡ぎなおす~」シリーズの第4回目イベントの様子を、引き続きお伝えします。
PartⅡからPartⅣは、千々布先生と参加者のディスカッションの様子をお届けしていきます。この記事はPartⅢになります。なお、本シリーズはPodcastでも配信しています。
教員集団での信念のすりあわせは必要か
山下:次は信念。ここでは皆さん(読書会で)かなり意見が出ていると思うので、信念についてもう一度お話させていただくと、実際信念というのは気づかないだけで存在するところもあるとか、技術的リフレクションで捉えている人は、信念というところにはやはり響かないのではないかというようなところで、皆さんに意見を出していただいたと思うのですけれど。その上で、リフレクションを進めていく上で教員の中で(信念の)すり合わせをしていくには、どうしたらいいかなというところが、すごい皆さんの関心が多かったと思うのですよね。今、実際に現場でも色々皆さんやられていると思うのですが、どんな風に捉えてやっていらっしゃるのかなと、ご意見をお伺いしたいなと思うのですが、いかがでしょうか。
B:これはそもそも、すり合わせないといけないのですかね。
山下:あぁ、なるほど。
千々布:それも一つの考え方ですよね。でもね、学校現場ではね、よく「歩調を合わせる」といいますよね。研究テーマなんかは歩調を合わせることができるように、ある程度の幅を持って設定されることが多いですね。
B:はい、そういった理解はできますね。「すり合わせる」だと、一個になっていくというイメージがあるけれども。
山下:すみません、(挙手された)Cさん。
〇信念対立のすり合わせにおけるコミュニケーションの有効性と限界
C:たいした考えじゃないかもしれないのですが、私の学校はまだ開校して4年ぐらいの私立です。教員集団の中で、教育方針に従って集まっている先生もいる一方で、やはりそれぞれの生きてきた環境とか背景が違うと思うので、微妙にやはり子どもに対する考え方とか、関わり方がちょっと違うなと思ったりするところも出てくるかなとか。授業のやり方も違うかなと思うことは、やはり自分自身の違和感としてはあるのですが、それで私が「こうしましょう、ああしましょう」という風に言うと、先ほどと同じで技術的リフレクションの構造にはまるのかなと思っていて。そこはやはり対話をすることで、お互いのどういう意図でそういう風に関わっていったのかとか、どういう考えがあってそういう風にしていったのかなということを、定期的にやはり振り返りをしていくと。対話をすると、自分だけの考えではないものを耳に入れてしまうと、必然的に耳に入れなかった時の自分には返れないと思っているので。そういったことを繰り返していくことで、すり合わせというか混ざっていくというか、最初はなんか凹凸があって混ざりにくかったのが、なんとなくお互いうまく混ざるというか、そういうイメージを持っています。すり合わせて一色になるというよりは、色んな色があるけれど、なんか一つになるようなイメージで、組織というものが作り上げられていくといいのかな、なんて最近は思っているところです。そういった機会というものだけは設定できていけばいいかなという風に、信念について思うところでした。
千々布:ありがとうございます。今おっしゃったような文脈からするとね、信念の対立をどうやってコミュニケーションを通じて克服していくかという話になるのですよね。そういうコミュニケーションというのは、あなたと私の信念でどこが違うかをまずは明らかにしよう、というような会話の仕方になっていくわけですよ。そういう会話が、民主主義社会を構築する上で大事だということでね、大体ハーバーマス(※1)的な考え方になるのだけれども、ただハーバーマスは「理想的なコミュニケーションが育まれれば、民主社会を構築できる」と考えたわけね。でも最近の研究者はね、ほとんどそう考えてはいないわけですよ。
※1 ハーバーマスJürgen Habermas ドイツの哲学者・社会学者。著書に「公共性の構造転換」(1962)、「コミュニケーション的行為の理論」(1981)ほか多数。
千々布:だって実際にね、あえて言えば対話を重ねれば重ねるほど、集団が分断していく状況がある。みんながそれぞれ自分の考えを喋るほど、信念の対立が先鋭化していって、もうあいつらは敵だっていうような考えになってくる。そして、極端に自分の考えをわかりやすく先鋭化させた人が、結局は大多数の支持を得られなくても、片方の考え方の人たちの支持が得られるってね。そういう状況が、アメリカのトランプ政権のときが典型でね。今日の世の中においても、アメリカと似たような状況というのが色んな国で生じているわけですよ。そうするとね、コミュニケーションに限界がありますねという話になるわけ。そこをどう克服していったらいいでしょうかというような、民主主義社会論だよね。ということを考えていく必要があるのですよ。という風に、信念の対立ってそう簡単に解消できるものではない。だから、どうやったら信念の対象が解消できますかって、「そんなことできるわけがないだろう」というのが、まずは手っ取り早い考え方になるのだけれども、でも信念の対立をなんとか克服して、共同歩調が取れるようになっている学校って結構あるのですよね、どうやったらいいか。一つの選択肢としては、限界があるだろうけれども、コミュニケーションという手段は有効ですよ。他にもあるはず。実は私そのあたり、本の中に結構ちゃんと書いているつもりなのだけれども。さあ他の方いかがですか。
他者とのコミュニケーションを通じた信念の変容
D:今の話を聞いていて、コミュニケーションだなと思う部分があって、何か自分がやったことに対して説明できないことが1個あったのですが、今の千々布先生の話を聞いていると、こういうことなのかなと思ったことが一つあります。自分は最初、リフレクションって本当に何か終わった後に書くものというか、点で捉えていたのです。その時をどう捉えたかというのを何か振り返って書くことが、リフレクションだなという風に思っていたのですが、ある時にやはりそれだと、同じところをぐるぐるしてしまうし、全然深まっていかないなということがあった。そこで、ちょっと学年の先生とやってみようという風にして、1日1人7分ぐらいをずっと3人で話すというので、1人ずつ話してお互いがずっと聞き合うというのを1年間続けてみたことがあります。そうしたらなんか、お互いのことが非常によくわかるというのもあるのですが、ちょっと大変な学年だったのですが、わりと学年の状態がよく変わっていったということがありました。でも、自分だとそれが何で変わっていったのかというのが分からなくて。「こうやってください」とも言えないし、それも技術的リフレクションだし、「そんなことに意味あるの」と言われると、そうなってしまうと思うのですが。でもそれって信念をすり合わせてはいないのですが、お互いの信念がそれぞれの話の中に、毎日毎日ずっと出てくることがあるので、それを知って、「この人ってこういう人なのだな」というのも分かるし、この人の悩んでいるところは、そういうところで悩んでいるのかとか、同じような問題点が自分の学級にもあるな、みたいなことをずっとずっと話していると、「あなたの信念はこうですよね」ということははっきりしないのですが、でも何となく3人のあり方みたいなものが分かって、少しずつ変化していったのだなという風に思っています。僕は今、コミュニケーションの総量で勝負するという方法でしか経験したことがないので、他にもたくさん色んな方法があるのだろうなと思うのですが、なんかその都度やっていたものが話に変わって、それぞれの信念から振り返る幅が増えて、やはりリフレクションは日常的にあらゆる場面で起こっていることだなという風に思うので、それを捉えて、また次の日に活かしていくにはどう考えていったらいいのかな、というのを今ちょっと悩みながら聞いていました。すいません、ちょっとまとまりがなくて。以上です。
千々布:いや今のお話はよく分かります。例えば私がね、「学力上位県の秘密」という本を出した時にね、福井を調べたのですよね。福井はね、学年会を頻繁に開いているわけですよ。中学校だと教科会ね。その中では、授業の進度をどうしましょうかというのがメインの話になるのだけれども、ついでに授業についての考え方とか子どもの状況についての意見交流とかで、同じ子どもの状況についての考え方の違いとか、交流されることになるのですよね。「うちのクラスでしょっちゅう騒いでいる子どもがいて、本当に困っているのです」ってね。これはね、困った子どもだと見る先生がいるわけですよね。この子どもがこういう変な行動をするのは、家庭環境が悪いに違いないとかね。それは信念なのですよね。それに対して、「私、そういう子を扱うのは得意ですよ」とか言う先生が出てくるわけですよ。そしたら信念が揺らぎ出すのですよね。「あれ、私その子が悪者とばかり思っていたのだけれども、その子をうまく生かすことができない自分が悪者だったのかもしれないな」なんてね、信念が揺らぎ出すのですね。で、「子どもをうまく使うことができる先生って、どういう教え方をしているのだろうか、どういう考え方をしているのだろうか」ということが気になっていくわけですよ。その先生の授業の様子をチラチラと見るようになったりしてね。そしたら、自分の授業で使うやり方と、かなり違うということに気がついてくるわけですよ。
千々布:という風にね、他者との交流を通じて徐々に信念が変わっていきますというのはね、もうこれ私の本の中で書いているはずですから、後で読み直してみてください。(※千々布敏弥(2021)『先生たちのリフレクション』第1章「信念に生き、信念に囚われている教師たち」16-33ページ、第7章「教師のリフレクションをどう促すか」186-212ページ参照)それ以外にも、信念の対立場面はあるわけですよ。そういうことを考えていくのも、皆さんの(やること)ね。これはほとんど、実践的リフレクションのレベルでしか考えることができないはずです。この問題について、批判的リフレクションのレベルまでいったならば、民主主義社会をどうしたらいいかとか、ロールズ(※2)の正義論のレベルにまで行くわけなのですよ。通常はそれぞれ、自分が生きている文脈の中で、自分が仕事している文脈の中で、信念の対立をどういう風に克服していったらいいかなと考えながら、試行錯誤でやっていく、ということになるはずなのですよね。
※2 ロールズJohn Bordley Rawls アメリカ合衆国の哲学者。主著「正議論」(1971)は様々な分野に影響を与え、政治哲学を活性化させた。
千々布:という私の話を聞いたら、少し考えが広まったという人はいませんかね。
信念対立の解消:目的レベルでの議論や目指す子ども像の明確化
B:考えが広まった、ということもそうですけれども、整理されたことがあったので、一つ共有したいと思います。どんな教育をしたいかということで先生方に議論してもらうと、これはそれぞれの持っている正義の対立になるので、それはもうやめました。うちの学校では、どんな教育をしたいかという自らの実践を語るのではなくて、どんな子どもを育みたいか、結局、卒業する時にどんな子どもを育みたいか、もうそこで議論しようと。絶対マイナスの子どもを育みたいという発言は出ないので、となったらもう最初からマイナスにならない枠組みで、授業をしていく時とか、または研究授業をしていく時に、管理職としてそこは意識して進めてきました。それはあながち間違いじゃなかったよなと。要は、コミュニケーションは先鋭化を生むということは体感的に知っていたので、体感的に知っているコミュニケーションの先鋭化を大事にする。で、ネガティブであるマイナス発言、マイナスの波及効果がないようにだけは注意していったらいいのだなということが確認できたので、ある意味ほっとしました。以上です。
千々布:いいじゃないですか。今の話なんかね、最近の授業研究のトレンドとも合致するのですよ。大体、根底には信念の対立があるのだけども、それを多くの授業研究の指導案の検討会の場は人間関係で片付けてしまっているのですね。どっちの方が、その職場において先輩であるかとかね。周りの信用を得ているかというところで、そこで人を見てしまって、自分は本当には同意をしていないのだけれども、その人の意見を採用してから、指導案だけを書き換える。研究授業は言われた通りにやるのだけれども、研究授業が終わったら、また元のやり方に戻るってね。そうすると、指導案検討とか授業研究会が妥協の産物になってくるわけですね。自分のリフレクションを高めることにならない。そこで、最近見られるようになってきたのは、細かな授業の流れよりも、まずは授業の目的を明確にしましょうと。この授業を通じて、子供はどういう学力を身につけていたらいいのかって、それは評価基準のことになるのだけれども、これを明確にイメージしましょう。ということになると、信念の対立は起きにくい。それでも起きてしまうのだけれどね。
千々布:信念の対立で、どうしたって知識偏重の信念を持っている人がいるわけですよ。特に中学校の方だとね、最後は高校入試をクリアしないといけないのだから、見方・考え方なんて言っていたってね、それよりも数学だったら問題が解けることが大事で、だからいっぱいドリル練習をやらせた方がよくて、社会科だったら事項を教えて理解させて暗記させるのが大事だってね。社会科的な見方・考え方を育むよりも、そっちの方が大事だとか、そういう信念を持っている人がいっぱいいるのですよね。だからそういう信念を持っている人に対しては、目的レベルで議論をしてもなかなか解消しないのだけれども、それでも少なくともね、「この単元が学習指導要領上で期待されている目的は何か」というのは、これ解釈になってくるのだけども、そこはほぼ共通するわけですよ。心の奥底で、知識が大事だと考えている教員もね、指導要領には「この歴史的事項を覚えさせるのがこの単元の目的」だなんて書いてはいないのだから。このときの社会情勢の中で、武士が権力を握るような世の中になっていったのですねと。同じ状況が日本だけじゃなくて、諸外国でも見られますねとかね。そういう権力を持っている人がどういうところに都を作るかというと、それは交通の要所であることが多いわけですよね。そうしたら、どういう地形のところに都が作られるかというような、地理の考え方も出てくるとかね。
で、そういう考え方を身につけさせることが大事だねということは、ある程度共通に理解されていて、それをうまく教えることができるようになってくると、知識よりもこっちの方が大事なのだなという風に、徐々に変容することができるというようなこともある。
千々布:カリキュラムマネジメントというのはまずは、目的論の議論から始まる。その後で各教科のカリキュラムを、教科横断を意識しながら作り上げていきましょうという流れになるのだけれども、私が見るところね、カリキュラムをそんなに丁寧に作っていない学校が多いのですよ。最初の「目指す子ども像の議論」をしただけでね、うちはカリキュラムマネジメントをやっていますという学校が結構あるのですね。それだけで結構歩調が揃ったりするのですよ。目指す子ども像だね。そういう有効性もあるなという話になってきますね。
B:ありがとうございました。
千々布:他はいかがですか。
教員としてのエージェンシーを高める関わり:アイデンティティ構築との重なり
D:信念のところを読んでいて気になったのが、信念よりも深いところというか、子どもをどうするかみたいな話もあるかもしれないのですが、先生たちが生き生きと生きてほしいというか、楽しく仕事をしてほしいなと思った時に、受験が大事だとかそういうのもあるかもしれないけれど、もうちょっと深いところで認めた上で何かやれるといいなというのはちょっと思っていたので、信念の捉える範囲が少し気になるところがありました。ただ、今お話を伺いながら感じていたのが、信念対立があるというのは当然そうなので、熊本だと苫野一徳さん(※3)がいるのですが、「自由の相互承認」みたいな話が頭の中で浮かんできました。
※3 苫野一徳 熊本大学大学院准教授。軽井沢風越学園理事。専門は哲学、教育学。主著に「愛」(2019)、「ほんとうの道徳」(2019)、「『学校』をつくり直す」(2019)、「『自由』はいかに可能か-社会構想のための哲学」(2014)ほか多数。
D:先ほどの先生たちのエージェンシーの緑色(記事#1の図5参照:三重円の中心部)の部分を見て、そういえば私は結構緑色が大きかったかもしれないなというのを客観的に見ていました。その中で、先生たちが自分たちのエージェンシーを高められるような学校になるといいなと思っています。職員研修をやって、それこそ「目指す生徒像」とか「そのためにどういうカリキュラム」とか、「目標とかルーブリックを作るか」みたいなことはやっているのですが、その時は結構うまくいくのですが、日常的には先生たち忙しいので、なかなか振り返ることができないのだなと思います。ただ、この前読書会で話をしていた時に、「リフレクションを日常化する」みたいな話が出ていて、そういえば10分間の休み時間とかで、「先生、あの試験問題面白かったですね」と話しにいったり、「こういうところ、興味あります」という話をしたりするような文化ができていくと、いわゆる形とか綺麗な枠組みでは出せないのですが、そういうものが醸成できるなというのが伝わって、次どういう風にアクションしようかなという、その辺りは考えていて、まだ答えは出てないのですが、そういうのを考えていたところでした。
千々布:今のDさんの話はいろんな要素が入り混ざっているのですよ。入り混ざっているのだけれども、入り混ざっているということが、喋りながら自分で自覚していっているはずでね。おっしゃっている中身において、教師のやる気であるとか、あるいは自己実現であるとか、そういうことって本当は信念とも関わってくると私は思うのだけれども、今のDさんの考え方では、それの前段階において必要なものとしてあるのだろうと。そういうのって恐らくは、アイデンティティというような概念になっていくと思うのだけれども、教師としてのアイデンティティがどう構築されていったらいいかと。このアイデンティティにも構造が影響していてね、アイデンティティというのは、構造に対して問題意識を持って取り組んでいくというような、エージェンシーを持って立ち向かっていくことでアイデンティティが獲得されるという側面もあるのだけれども、その構造に同化することで獲得されるアイデンティティというのはあるのですよね。
千々布:相撲部屋の文化がね、前近代的でつまらんと言うのは、それは一つの見方になるのだけれども、でも力士をやろうと思ったら、相撲部屋の文化に同化した方がいいわけですよ。同化してしまったら今度はね、ふと気がついたら自分が新入りの若い力士を叱り飛ばすような立場になっていたってね。それによって幸せになる。アイデンティティが確立されて幸せになる人間というのもいるわけなのだから、そういうやり方もあるでしょう。でも、今の学校現場のしがらみの中で、自分は何のために教員をやっているのだろうって、思わず立ち止まって考えたくなってしまうっていうところもあるわけですよね。それは今ね、外部からの色々な期待が教師に対して阻害要因として働いているというのもあるのだけれども、外部の期待に対して答えないといけないという思い込みもまた教員の側にあるのですね。出来ないことは「出来ません」という風に言えばいいのにね。何か「出来ません」という風に言ったら相手が残念な顔をするので、「出来ません」と言わない方がいいという信念を持っている先生がいるとかね。色んなレベルの信念があって、それに対して自分がどう対処していったらいいかということを考えていく。だから、今私が喋っているような文脈で言うと、その信念論もエージェンシーと被ってくるわけですよ。それを、今Dさんがおっしゃったようなやり方で、色々とコミュニケーションを図っていく。それを通じて、自分の考え、自分の信念を修正するとかね。自分のエージェンシーを拡大していくという風にしていったらいいと思います。ありがとうございます。
D:ありがとうございます。
まとめ
以上、PartⅢの記事をお届けしました。このパートでは、教員集団の中での信念対立とその解消に向けて、それぞれの現場で行われている小さな実践がいくつも挙げられ、それがより大きな民主主義社会論の問題点などにつなげて批判的に議論される、非常に興味深いディスカッションとなりました。現場では教員同士の信念対立がなくなることはなく、コミュニケーションにも限界があると考えられる中、それでも議論を通じて「コミュニケーションはある程度有効」「信念の変容は難しいが可能」という方向性が見えてきたことは、私たちの実践を確かに支える、新たな信念を見出す希望を与えてくれたのではないでしょうか。
次回は引き続き、PartⅣをお届けします。どうぞお楽しみに!
MAWARUリフレクションメンバー
(執筆:生井)
【千々布先生イベントの記事】
# 4 -1 リフレクション3段階論からエージェンシー論へ
# 4 -2 質疑応答とディスカッション(1)
# 4 -3 質疑応答とディスカッション(2)(本記事)
# 4 -4 質疑応答とディスカッション(3)(公開後リンクします)
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