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夜について

「退屈」

 近頃、寝るのが億劫になってきた。とりあえず、寝なければならないと感じるほどには疲れているはずなのだが、迫り来る就寝時刻が私に与えるのは苦痛のみである。

 退屈だからだ。寝る直前まで、パソコンや本などでいろいろ読んでいるのがいけないのかもしれない。就寝時間になってそうしたものから離れ、部屋の照明とスマートフォンの電源を切ってしまうと、それまで目の前にあった膨大な情報の渦がすべて消え失せる。もちろん、いろいろと考え事をしてみれば退屈しのぎになるかもしれないが、真っ暗闇の中浮かんでくるインスピレーションに楽しいものなどあるだろうか。夜中の思い付きにろくなものがないとは先人の教えである。そんなことを思うと今度はやるせなくなり、布団に入るのがさらに嫌になる。

 暗い天井を見つめながら時計のチクタクという音と冷蔵庫がうなる音を聞く以外、何をするでもない空間。暇だ。全く落ち着かない。落ち着かないからかえって目がさえてしまって眠れない。そこで、そもそも寝落ちるとはどういうことかなどと考え始める。睡眠中という一種の世界への入り口を懸命に探しているのだから、波に乗ろうとしているサーファー、または風に乗ろうとしているパラグライダーの人に似ているのだろうか。しかし、結局一番近いのは暗い部屋の中電球の引き紐を必死で探すときではないかと思い直し、一層みじめな気持ちに。

 いっそのこと起き出してしまえば良いのだろうが、「美容と健康」、そして翌日も仕事があることを思い出すとそうもいかない。かといって酒の力を借りるのも癪だ。それで、最近では「快眠促進のツボ押し」なるものに挑戦してみている。ありがたいことにこれが意外に効くため、今までどうして試さなかったのだろうと大変不思議だ。だが、ツボ押しして睡眠状態に何とか自分をねじ込もうとしているとき、つまり眠りの引き紐を何とか見つけたとき、起きているのか眠っているのかはっきりと区別できない、ふわふわとした感覚に陥るのがこれまたなんとも微妙なのだ。


 「夜の音」

 夜、布団の中で悶々としているときに聞こえてくるのは、国道を走る大型トラックの音。昼間はあまり気にならないのだが、夜になるとはっきりと意識するようになる。とはいえ「騒音」、「眠れないじゃないか」と恨めしく思っているわけではなく、なかなか楽しく聞いているほうだ。
 
 というのは、夜中にトラックが走っている様子を想像してみると結構おもしろいからだ。私の中には、今日と明日の間には今日でも明日でもない、まったく別物の空間が存在するはずだという勝手な幻想があるのだが、トラックはその中を、つまり今日と明日の間の空間をつなぐように走っている。トラックのヘッドライトも、まるで今日と次の日の架け橋のようではないか。

 同時に、「こんな夜中にもトラックを運転している人がいるのだな」と感じ始める。もちろん、夜間に働いているのはトラックの運転手さんだけではない。消防士さん、お医者さん、看護師さん、コンビニの店員さんなどたくさんの人々が夜でも働き、そしてこの国の生活を力強く支えてくれている。これは大変ありがたいことだ。そして「ありがたいなあ」と思っていると、夜の闇のなかで右往左往する気持ちもだんだんと落ち着いてくる。


 「新聞配達の音」

 せっかく寝ついたというのに、夜中の二時、三時頃にふっと起き出してしまうことがある。たいていは妙な夢を見ただとか、金縛りにあっただとかが原因だ。そして、いったん起きてしまった後は再び眠りに戻らなければならないのだが、これがなかなか厄介だったりする。

 夜中の二、三時というと、私にとっては昨日、今日、明日のどれでもない時間的空間だ。「魔界」といっても過言ではない。いい大人になってまで情けないのだが、「何か」を「見て」しまうのではないかと不安になるのだ。夢の中で現実と非現実との間をさまよった後では余計に無防備に感じるし、そもそも夢で「見て」しまうこともある。金縛りも、一度遭うとその後何度も繰り返しそうになり、また金縛り中に「何か」を「見て」しまうことも本当にあるから、体の筋肉を緊張させて必死で回避しなければならない。

 そんなときに現れる「救い」が、新聞配達のバイクの音だ。「何か」を「見たり」その存在を「感じたり」してしまい、二度寝するのがどうしても苦しいときに朝刊を配達するバイク音が聞こえてくると、もう怖がらなくて良いんだな、と心底ほっとする。もう今日の分の魔界が終わり、ようやくちゃんと「明日」が来たことを実感するからだ。それでやっと安心して眠れるようになる。まあ、その日は一日中寝不足気味だろうな、などとぼんやり考えながらも。

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