お尻があれば揉む
わたしの愛情表現の1つは、スキンシップだ。とにかく触れる。基本的にいつもどこかに触れていたいと思っているし、隙あらばくっつきたいと思っている。
例えば、交際している彼が洗面所で歯磨きをしている。
わたしはひそりひそりと忍び寄り、後ろからガバリと抱きつく(わ、なんか来た、と言われる)。
例えば、彼がソファに座ってテレビを見ている。
スタスタと歩み寄り、向かい合う形になるよう、前から彼の膝に座ってグンと抱きつく(ウーン見にくいなあ、と言われる)。
例えば、電車で並んで座っている。
小さな声で話したり、しなかったりする横の彼の手の上に、自分の手を重ねる(彼は無反応で、平然としている)。
例えば、外食先の飲食店で、向かい合って座る。
注文後の会話の最中に(見てあのカップル初々しいとか、さっき咳していたけど喉が痛いの?とかを言いながら)、手を伸ばして彼の手の甲に触れる。
例えば、バーに入ってカウンター席に隣り合って座る。
飲んだり、話したりしながら、わたしはほとんどいつも彼の太腿に手を置いている(彼は話をするのに夢中だけど、たまに手を重ねてくれる)。
とはいえ。
人前で抱きついたり、まさかそれ以上のことをするなんて、日本では到底できないし(そんな光景が日常茶飯事な外国の街にいるか、イタリア辺りの人と付き合ってでもいれば、やってしまいかねない)、
決して相手に盲目的になっているわけではないのだけれど(付き合いたてなら、むしろ距離感を測っている最中なので遠慮している)、
単にわたしにとっての愛情表現が、スキンシップである、というだけのことだ。
そして、ここで念のために特記しておきたいのは、別段、わたしは相手をときめかせたいわけでも、相手を誘っているわけでもないのだ。
わたしは、相手の存在を感じたい。
相手はたしかにここにいる、ということを確かめたい。
無駄なく、完全な存在として、今ここで息をしていること自体が奇跡なのに、驚くほど自然とそれをやってのけている、愛おしい人がここに存在していることを確かめたい。
わたしは、自分の存在を感じたい。
こうして触れることに下心なんてなくて(下心のある触れ方は別)、ただ存在を確かめたがるのがわたしであると認識し、理解し、許してくれていることを確かめたい。
その上で今を一緒に生きることを相手が選んでいることを確かめたい。
触れるたびに、大袈裟ではなく、なんだか感謝の気持ちで満たされるのだ。
相手も自分も今ここにいる。当たり前じゃない。
触れたい。
触れずにはいられない。
どうか触れさせて欲しい。
慣れてくれば慣れてくるほど、そんな切なる願いは増すものだから、交際相手の自宅にいて、目の前にお尻があれば、わたしはすかさず揉みに行く。
わ!と言って、相手がびっくりして避ける。
「何やってんの」と言われ
「スキンシップ」と言う。
「びっくりするでしょ」と言われ
「じゃあもうちょっと優しく触るよ」と言う。
すると相手はけたけたと笑いながら、
「そういう問題じゃない」
と言う。
「お尻はやめて」
そうなのか、お尻はダメなのか。
お尻フェチなわたしはとても残念に思う。
だけどまた隙があれば、存在を感じたいと思った瞬間、お尻だろうとなんだろうと、触れにいくと決めている。それがわたしの愛情表現なのだから。